川原俊夫、明太子を作った!ふくやに人生をかけた常識外れな誕生秘話がアンビリバボー!
川原俊夫、明太子を作った!ふくやに人生をかけた常識外れな誕生秘話がアンビリバボー!
明太子づくりに情熱をかけた男、ふくや創業者・川原俊夫の半生が紹介される「奇跡体験!アンビリバボー」は明日5/31(木)19:57フジテレビ系でオンエア!発売当初売れなかった明太子がなぜ博多名物に!?その秘密を知りたい方は要チェック! #ふくや https://t.co/G7ediVn4av
— 株式会社ふくや (@fukuya_mentai) 2018年5月30日
目次
川原俊夫を奇跡体験!アンビリバボーで放送
2018年5月31日放送の奇跡体験!アンビリバボーは
【10年かけて明太子作った奇跡の男の仰天人生!】として
川原俊夫を取り上げる
@tos
奇跡体験!アンビリバボー【博多名物・明太子誕生秘話!!川原俊夫の半生】5月31日(木) 19:57-21:00 https://t.co/0SU8IULIBy— memo (@hhdmemo) 2018年5月28日
番組予告は
10年かけ妻に仲間に…他人に全て捧げた男の半生。他人への恩は決して忘れない…常識外れのお人よし!?人を笑顔にするため…覚悟を決めた驚きの理由とは!?
番組内容
1950年、福岡県・中洲市場で食料品店を営む夫婦がいた。
川原俊夫さんと妻・千鶴子さん。釜山で生まれたご夫婦は戦後、満州から引き上げてきて、この地で商売を始めていた。俊夫さんは近所で火事が起こると真っ先に駆けつけ、また被害にあった人を家に泊めてあげるなど、困った人がいると放って置けない男だった。そんな彼の口癖は「見返りを求めてはいけない。
そして人からしてもらったことは絶対に忘れてはいけない」というもので、息子の健さんにとっては、ただのお人好しな父親であった。
そんな父がこだわったのが、本場韓国のメンタイを作ること。
実は日韓併合時代の韓国で生まれ育った夫婦にとって、メンタイは思い出の味であり、特に千鶴子さんはもう一度メンタイを食べたいと常々口にしていた。
しかし当時、日韓に国交はなく、取り寄せることができない。
俊夫さんは妻のためにも記憶を頼りにメンタイを作っては店に並べたが、客の評判は悪かった。
それでも俊夫さんは諦めず改良を重ね、ついに10年の月日が流れた頃、思い通りの味が完成!しかし、店頭に並べても全くと言っていいほど売れなかった。
全く売れなかった明太子がなぜ博多名物になったのか?明太子に人生をかけた男と、その家族のアンビリバボーな誕生秘話とは!?
今や、ご飯にあうおかずランキングに上位にランクインされる不動の人気おかず。
しかし、歴史は浅くまだ40年だという。
その歴史を作ったのが川原俊夫氏。
明太子の名店「ふくや」の創業者なのだ。
そのアンビリバボーな人生を放送する。
川原俊夫のプロフィールは
氏名 川原 俊夫(かわはらとしお)
生年月日 1913年1月25日-1980年7月17日 享年67歳
ふくやの創業者
博多式の辛子明太子を開発し、広めた人物として知られる
川原家
福岡県朝倉郡三輪村(現在の筑前町)出身
明治後期に釜山に渡って「川原回漕店」という商店を開店
(海運業を行うかたわら現地の日本人向けに海産物や缶詰などの販売)
1913年(大正2年)川原宇次郎とトヨの二男として釜山市の寶水町(ko)で川原俊夫は誕生した。
川原家は後に「富久屋」(ふくや)という食料品店も経営していたので「ふくや」になったという。
川原俊夫さんは、釜山で売っている明太子に興味を持っていたという。
川原俊夫は釜山公立中学校を卒業後
1930年(昭和5年) 満州の電力会社「南満州電気株式会社」に入社、奉天へ移住
1936年(昭和11年) 田中千鶴子と結婚
1942年(昭和17年) 新京の本社に転勤
1944年(昭和19年)に陸軍に召集、伊良部島に配属。
その後、宮古島で終戦を迎える
田中家
「釜山物産組」という海運会社を経営
同じ福岡県の糸島郡出身であったことから川島家と田中家は仲良しだった。
千鶴子は100メートル走で朝鮮全土の女子最速記録を樹立
アムステルダムオリンピックメダリストの人見絹枝より日本体育大学への推薦を打診された事もあったという。
日本に引き揚げてから「ふくや」を創業
終戦後、福岡県糸島郡北崎村に引き揚げる
天神町市場(現在は福岡ビルが建っている)に数件の海産物などの販売店を出した。
1948年(昭和23年) 川原一家は中洲市場へ移住「ふくや」を開業
主に店舗向けに食料品を売る卸商店で
業務用の中華料理食材に強く、
「鳴海屋」「トーホー」「ふくや」は「福岡の三大食品卸商店」と称された
川原俊夫はオリジナル商品「明太子」の開発に挑む
ふくやはオリジナル商品を開発しようと
川原俊夫さんと妻の千鶴子さんは釜山で食べていて
好きだった「明太子」の開発に挑んだ。
明太子(辛子明太子)は、スケドウダラのたらこを唐辛子などで漬け込んだ食べ物。
その頃に韓国と日本にはなく国交もなかったため、輸入することができず、食べた舌だけが頼りだった。
特に妻の千鶴子さんは明太子が好きで
「おいしい明太子が食べたい」と言っていたという。
1949年(昭和24年)に第1号の明太子が店頭に並ぶ。
しかし、全く売れず、「店主の道楽」とも言われた。
1957年(昭和32年)に「味の明太子」が発売
1号の明太子ができてから10年かかって完成となった。
明太子が広がった理由
近所では少しずつだが知られるようになったが
店舗でもまだ対して売れていなかった。
しかし、小料理屋で出されるようなり、サラリーマンの間で人気になり、県外にも知られるようになる。
1965年(昭和40年)には大阪の政財界で評判となり、大阪のキャバレーから大量に注文を受ける。
(2トントラックに明太子を満載して運ぶこともあったとか)
1975年(昭和50年)に山陽新幹線の岡山―博多間が開通すると一気に全国へ広がった
明太子が全国に広がった理由はなんと「新幹線の開通」だったのだ。
川原俊夫の偉業は独占しないこと
川原俊夫さんは博多式の辛子明太子を開発。
明太子産業を博多に根付かせた。
「明太子が博多の名産品として普及させたのは川原俊夫さんの功績そのものなのだ。
それは、川原俊夫さんは、望むものには誰にでも製法を教えた。
独占しなかったのだ。
そのため、多くの明太子業者が生まれ、博多で明太子産業が発展していった。
さらに中洲の街を発展させた
博多といえば中洲と言われるほどの繁華街
それを発展させたのも、川原俊夫さんの功績が大きいを言われている。
1949年 1949年(昭和24年)に中洲流が独立することが決定
すると中洲市場の専務理事として中心的な役割を果た
また、「中洲町連合会」や博多や中洲の商店街、
百貨店で作る「博商会」では副会長や会計係を務め、
祭りの資金集めや中洲まつりの開催、博多川の浄化といった事業に携わっている
1978年(昭和53年)には山笠の遠征を企画
1980年(昭和55年)にはハワイへの海外遠征を計画
しかし、この年に体調を崩し、川原俊夫さんは、67歳で亡くなった
川原俊夫さんの人物像
身長170㎝。
当時150㎝の平均身長だったことから相当の大男だった。
さらに坊主頭だったことから「中洲の日蓮さん」と呼ばれていた。
「明太子はお惣菜である」として特許を取らず誰にも製法を教えた。
ただ、調味料の配合と粉唐辛子の製法だけは企業秘密として、一部の社員以外には伝えなかった
高額納税者番付に掲載されたが興味はなく寄付を好んだという。
自他とも見認める「山のぼせ」で毎年山笠に参加
タレント・ラーメン店経営者の川原ひろしさんは川原俊夫さんの兄の孫
川原俊夫さんを描いた作品
本
「明太子をつくった男 ふくや創業者 川原俊夫の人生と経営」
(川原健著)
テレビドラマ
「めんたいぴりり」
福岡県のテレビ西日本が開局55周年を記念して製作したドラマ
博多華丸さんが川原俊夫さんを演じている。
元々は韓国の食べ物だった「明太子」
しかし、今は、博多の日本のソウルフードと言っても過言ではないだろう。
その陰には川原俊夫さんという人物がいたことを覚えておきたいと思った。