尾畠春夫 情熱大陸がプロフェッショナルなスーパーボランティアを密着

尾畠春夫 情熱大陸がプロフェッショナルなスーパーボランティアを密着

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目次

尾畠春夫 情熱大陸がプロフェッショナルを密着

2018年9月23日放送の情熱大陸は

78歳のプロフェッショナルなスーパーボランティア尾畠春夫さん
山口県で行方不明になった2歳の男の子を発見したことで一躍有名になりましたが、
ボランティアの中では元々有名な方だった。

そのプロフェッショナルなスーパーボランティア尾畠春夫さんを情熱大陸が密着します。

番組予告では

プロフェッショナルなスーパーボランティア尾畠春夫

▽赤いつなぎに“絆”と書かれたヘルメット…尾畠が現場に入ると、空気が変わる。原動力は何なのか?密着を続ける中で告白した「秘めた想い」とは

番組内容
今年8月、山口県周防大島町で行方不明となった2歳児を発見し一躍時のひととなった尾畠春夫。
現場では率先して床下へもぐり込み、被災者に寄り添い仲間に作戦を指示。
また経験が浅く動きが硬いボランティアを得意の冗談で和ませる。身長161cm、小柄な体からは絶えず前向きなエネルギーを発し続ける78歳は、なぜここまで打ち込めるのか?密着の中で「他の取材では話したことがない」長年の秘めたある想いを口にし始めたー。

プロフィール
小学校5年生の時に母を亡くし、農家に奉公に出る。
中学校は3年間のうちの4ヶ月しか通えなかった。
別府市や山口県下関市、兵庫県神戸市の魚店で修業を積み、東京で鳶と土木の会社で資金を貯めた後1968年大分に戻り魚屋「魚春」を開業。
地元の人気店だったが65歳の時に惜しまれながら閉店、以後ボランティア活動に専念。

プロフェッショナルなスーパーボランティア尾畠春夫のプロフィールは

氏名  尾畠春夫(おばた はるお)
生年  1939年年
年齢  78歳
出身  大分県国東市安岐町[
在住  大分県速見郡日出町

家族  妻・48歳の息子・45歳の娘・孫娘1人・孫息子4人

経歴

2004年    新潟県中越地震のボランティアに参加
2006年4月1日 鹿児島県佐多岬を徒歩で出発して太平洋側を北上
7月1日 北海道宗谷岬に到着して日本列島を縦断
2010年12月  由布岳の登山道をボランティアとして整備し始めて17年経過
2011年3月  東日本大震災のボランティアとして宮城県の南三陸町でがれきの中に埋もれた思い出の写真などを拾い集める「思い出探し隊」の隊長として活動
2014年   自費で登山道の清掃や案内板の設置を続け、
環境省から表彰を受ける。
2016年、  熊本地震のボランティアに参
2016年12月 大分県佐伯市で行方不明になり、約21時間後に発見された当時2歳の女児の捜索に参加2
018年7月  西日本豪雨のボランティアに参加。広島県呉市天応地区で3週間活動

2018年8月15日 山口県周防大島町家房で行方不明になっていた2才の男児を救出するためボランティアとして現地に赴き、3日間発見されなかった男児を20 – 40分の間に発見、救出。
山口県警より感謝状を受ける
スーパーボランティアとして話題になる。

2018年8月18日 広島県呉市でのボランティア活動に再び参加
2018年9月3日 「大分県日出町功労者表彰」受賞

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プロフェッショナルなスーパーボランティア尾畠春夫の生い立ち

尾畠春夫は、大分県国東半島の貧しい家庭に生まれる。
幼少時に現在の杵築市に引っ越し、7兄弟の4番目として育つ。

尾畠春夫の父は下駄職人だが、時代は靴に代わる時期で商売は順調ではなかった。
尾畠春夫が5年生の時、母が41歳の若さで他界。
父は、商売もうまくいかず、やけ酒に走る。
尾畠春夫は「大飯喰らいだから」と一人、近所の農家へ奉公に出される。
尾畠春夫は、奉公先の主人や家族を親だと思い、何でも言うことを聞くような生活をしていました。
中学校へは4か月しか通っていない。
すべては生きるため、「世の中なるようにしかならない。やるだけやってやろう」と
尾畠春夫の恨みの対象だった父がいつしか感謝の対象に変わる。
この時の経験が宝になっているという。

1955年 尾畠春夫は中学を卒業し、姉の紹介で別府の鮮魚店の小僧となる
その時尾畠春夫は、別府駅に向かう時に父から30円を渡される。
これは片道切符代と知り、帰るという選択肢がないと知る。

別府の鮮魚店で3年間修業。
下関市の鮮魚店で3年間フグの勉強をする。
神戸市の鮮魚店で関西流の魚のさばき方やコミュニケーション術を4年間学ぶ。

開業資金を得るために上京
大田区大森の鳶・土木の会社に「俺には夢があります。3年間どんな仕事でもするので働かせてください」と就職。
この時の鳶と土木工事の経験が、現在のボランティア活動に役立っているという。

1963年 大分に戻り、4月に結婚
11月  28歳で別府市内に鮮魚店「魚春」を開業。
地元で人気店となる

40歳から趣味で登山をはじめ、45歳の時に北アルプス55山を単独縦走。
2003年 60歳頃からは、ホームグラウンドとしていた由布岳登山道の整備などのボランティアを開始

78歳時点での将来の夢は「夜間の高校に行って勉強したい」

尾畠春夫はプロフェッショナルなスーパーボランティアへ

65歳 本業だった鮮魚店をやめ、
「学歴も何もない自分がここまでやってこられた。社会に恩返しがしたい」と思ったから」と余生をボランティアに捧げる。

赤い服を着用し背中に大きく名を書くのが尾畠春夫。
被災している方は身元がわかるほうが安心するからとの配慮から

黙っていると怖いと思われるので、よく話す
すべては安心感をもってもらうように努めるという。

尾畠春夫は、軽ワゴン車に食料や水、寝袋などの生活用具を積み込み、助ける相手側に迷惑をかけないのが信条

「自己完結するのが真のボランティアだ」と
決して人の世話にはならない。
雨が降って傘を渡されても受け取らなかったのは有名。

「対価、物品、飲食、これは絶対、頂かない。敷居をまたいで家の中に入ることもボランティアとして失格だと思っている。私はそれで良いと思うんですよ。人がどうしようと関係ない。尾畠春夫は自分なりのやり方がある。」

尾畠春夫のボランティア時の食事はパックご飯とインスタントラーメン。
パックご飯は温めるとガス代がかかるのでそのまま食べる。

寝泊まりするのは軽ワゴン車の後部座席で、被災地のどんな環境でも寝られるようにするため、普段からゴザの上で寝る習慣がある。
尾畠春夫はの軽自動車は、13年間使っており、走行距離は約20万㎞風呂もシャワーも浴びず、帰宅後温泉に3-4時間入るという。

「暑い」とは絶対に言わない。
ボランティアさせていただいているという立場を忘れてはいけない

東日本大震災のボランティア参加時に、浴びるほど飲んでいた酒をきっぱり止める。

尾畠春夫は、断酒したわけではなく、中断しているだけだという。東北3県の仮設住宅がすべて取り除かれたとき、解禁すると述べている。

いつかは沖縄で遺骨収集したい。
ガマと呼ばれる沖縄の自然の洞窟には相当な数の兵隊の骨が残っているが、その捜索がしたいという。

2018年に実行する予定で、道具の準備もしていたが、災害が続発して断念した。
2019年春には実行したい

「表彰を受けたからといって、必要以上に頑張ろうとは思わない。今まで通り、ボランティアを続けていくだけ」

と淡々とボランティア活動をするのがプロフェッショナルなスーパーボランティア 尾畠春夫さんなのだ。

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