杉田秀夫は瀬戸大橋建設に夢をかけた東大卒の本州四国連絡橋公団坂出工事事務所 初代所長

杉田秀夫は瀬戸大橋建設に夢をかけた東大卒の本州四国連絡橋公団坂出工事事務所 初代所長

スポンサーリンク



目次

杉田秀夫は本州四国連絡橋公団坂出工事事務所初代所長

杉田秀夫さんは、瀬戸大橋を建設することになり、初代の本四公団島調査事務所坂出支所長に1978年に就任しました。

天候に左右されずに安全に本州に渡りたいという四国の人々の願いは強くなっていました。

四国と本州はそれまでは、船で渡るしかありませんでした。
船は、天候の影響を受けて、欠航することも多々あり、海難事故も起こり、多数の犠牲者が出たこともありました。
四国に人にとって、瀬戸大橋の夢の橋だったのです。

瀬戸内海を大きくまたぐ瀬戸大橋は、海の上を渡る部分が9368mになる巨大な橋で、橋脚と橋脚の間は長いところで1100mもあります。

1972年(昭和47年)6月、杉田秀夫さんは初代の本四公団島調査事務所坂出支所長として、ふるさとの香川に赴任。

1978年(昭和53年)10月、瀬戸大橋着工

1988年(昭和63年)4月四国と本州をつないだ夢の橋、瀬戸大橋が完成しました。

杉田秀夫は東大卒のエリート

杉田秀夫さんは、どんな人だったのでしょうか。

杉田秀夫さんは、1931年(昭和6年)千葉県印旛郡に生まれました。
父の転勤で丸亀市に移住。
昭和20年 陸軍幼年学校に入学。

終戦後、旧制丸亀中学に入学
東大工学部に入学し、卒業後は、国鉄に入社。
国鉄では工事を担当し、難工事も成功させたと有名だったそうです。
東大を出て、国鉄に入社して、工事担当とはエリート中のエリートですね。

1972年(昭和47年)6月、杉田秀夫さんは初代の本四公団島調査事務所坂出支所長として、ふるさとの香川に赴任しました。

四国で育った杉田秀夫さんにとって本州に橋を渡っていけることがどんなにすごいことが十分わかっていました。
明治時代に大久保諶之丞が瀬戸大橋を提唱したときには、「夢みたいなことを」と鼻で笑われたとが伝わっていたからです。

瀬戸大橋の難工事と人々へ説明

瀬戸大橋の着工を強く求められるきっかけになった事件が起こりました。
この海域は、潮の流れの変わりがとても早く地元の漁師さんたちも近づかない場所でした。

それは、1955年に起こった海難事故でした。
本州と四国を結ぶ国鉄連絡船「紫雲丸」が潮の流れの影響で貨物船とぶつかり沈没、乗船していた多くの修学旅行中の小学生や船員168名が犠牲になりました。

橋があれば、こんな大きな事故は起こらなかっただろう。と橋の着工を望む声が大きくなったのでした。

瀬戸内海を大きくまたぐ瀬戸大橋は、海の上を渡る部分が9368mになる巨大な橋で、橋脚と橋脚の間は長いところで1100mもあります。

海の中に橋の基礎なる部分を作らなければならないという難題を抱えていました。

海に潜って地盤を調査するのは、率先してやりました。
50近くになって体力が衰え始めていたにも関わらず、自宅から勤務先までの片道12㎞を全力で自転車をこいで通い体を鍛えました。

さらに自ら水深50mを潜るために他の若い職員とともに潜水技術を学び、資格を取りました。

海中での工事が盛んに行われて時期には、約3か月半の間、延べ300回、400時間もの間自ら海底にもぐり、直接工事の指揮をとったそうです。

杉田秀夫さんは、
「工事中に海底の状況を見てすぐに対応への判断を下さなければならない時がある。それをすばやく行うには、責任を負える立場にいる自分が潜るのが一番であり、当然のことではないか」と答えています。

橋を作ってほしいという熱い期待ともに、橋を作ることによって影響を受ける漁業関係者の不安も杉田秀夫さんは、根気強く説明しました。

1975年(昭和50年)3月 杉田秀夫さんはダイナマイトの爆破実験を行いました。
激しい衝撃で多くの魚が死んでいったのです。

この結果を杉田秀夫さんは、漁師さんたちに包み隠さずに報告しました。

初めは敵対していた、漁師さんや地元の住民たちに500回以上かけて説明して、いつしか漁民は杉田秀夫さんの味方になっていました。

そしてようやく1978年(昭和53年)10月、瀬戸大橋着工になりました。
本四公団島調査事務所坂出支所長として就任してから、6年後のことでした。

瀬戸大橋に建設に携わった人は

「杉田秀夫さんは、問題が起きたときには、すべて自分が引き受け、工事に関するあらゆる面で先頭に立って引っ張ってくれました。彼のうそのない誠実な人柄によって、問題もうまく解決できました。彼に対する地元の人たちの信頼は大変なものでした。」

と語っています。

スポンサーリンク



杉田秀夫の家族

杉田秀夫さんには、奥さんの3人の娘さんがいました。
妻の和美さんは瀬戸大橋の完成を強く望んでいました。

普段、家のことは妻の和美さんに任せきりで家事を杉田秀夫さんは全くしてきませんでした。
そんな杉田一家を、1978年瀬戸大橋の着工途中に和美さんの末期がんが判明してしまいます。
この時、基礎部分を工事するという大事な時期でした。

和美さんのがんのことは、本人にも職場の人には知らせず、杉田秀夫さんは、仕事が終わると毎晩、病室に通い、和美さんの世話をして病室の添い寝の床マットに泊まりました。

朝は和美さんの洗濯物を持って家に帰り洗濯し、3人の娘たちの食事の準備をして、新しい着替えを病院に届けてから出勤するという、睡眠時間4時間の過酷に日々が続きました。

1978年半年後のクリスマスイブ、瀬戸大橋の完成を待ちわびていた和美さんは34歳という若さで帰らぬ人となってしまいました。

病室からは杉田秀夫さんの悲しみの声がずっと聞こえていたそうです。職場を初めて休んだことで、事実を知った部下たちは絶句したそうです。

しかし、和美さんの葬儀の日、杉田秀夫さんは仕事に出かけます。
母に「こんな日にも仕事に行くのですか」と咎められても外せない仕事だと出かけたのです。

その日は、海中での爆破作業や、土地の買収問題などを漁民や住民たちとの話し合いの日だったのです。

和美さんは、生前に自分の名前を書いた小石を杉田秀夫さんに渡していました。

「橋の基礎になる部分の工事が無事に終わった時に、工事に関係した人がそれを祝って、その中にそれぞれの名前を書いた小石を投げ入れる。」
という話を聞いた和美さんが自分の石も一緒に入れて欲しいと託したのでした。

長女は中学二年生、次女は小学五年生、三女は小学二年生。
毎朝5時半に起き、食事の準備をし娘たちの弁当を作り、洗濯をし三人を起こして食事をさせ出勤しました。

帰宅途中に献立を考えて買い物をし、毎晩夕食を作り、あとかたづけをしアイロンをかけるという家事育児と仕事の両立をしました。
再婚の話もあったが、全て断ったとそうです。

そして、1988年(昭和63年)4月遂に橋は完成しました。
着工から10年、本四公団島調査事務所坂出支所長として香川に転勤してから16年の月日が経っていました。

瀬戸大橋が完成した後、本四公団の東京本社に転勤し、海洋架橋調査会に所属し、現場に立つことはしなかったということです。

1993年(平成5年)11月17日瀬戸大橋完成から5年後、娘たちに囲まれ62歳の生涯を閉じました。

杉田秀夫さんは、瀬戸大橋と娘3人を育てるという仕事、夢を叶えて和美さんの元に行ったのでしょうか。

杉田秀夫の名言・格言は

瀬戸大橋は、16年、着工からh10年の月日、のべ900万人が関わった大プロジェクトでした。

そのリーダーが杉田秀夫さんで「男が惚れる男」で人望がとても厚い人でした。

杉田秀夫はいろいろ、心に響く言葉を残しています。

「杉田秀夫 の名言・格言」

偉大なる人生とは何か
橋を作ることより
もっと難しい人生がある

海は巨大で恐い
ちっぽけな人間の
精神力は通用しない
生意気なことは
考えてはいけない

男は常に沈着冷静で
あらねばならない
いかなる苦境に立っても
うわずった声を
出してはならない
悠々と構えよ淡々と語れ

逆境の中で
やり遂げる執念が必要だ
後の世に人に
笑われない仕事をしよう

事を計るは人にあり
事の成るは天にあり
個人の業績など
まことにけちくさい
ことなのである

五分五分ならば
やる方にかける

橋をつくるという
ことの経験が
人より多少に余計に
あったからといって
これは人生の価値と
全く別のことなんですね
偉大なる人生とは
どんな生活を言うのか
ということなのですが
これは非常に難しい
問題でありまして
瀬戸大橋をつくるより
はるかに難しい

杉田秀夫がアンビリバボーに

2021年6月24日木曜日 20:00~21:00放送のアンビリバボーは

奇跡体験!アンビリバボー
【瀬戸大橋建設!一人の男のアンビリバボーな生き様】

本州と四国を結ぶ夢の一大プロジェクト「瀬戸大橋建設」そこには、ある男の壮絶な人生が秘められていた!知られざるアンビリバボーな生き様にスタジオ涙…

番組内容
本州と四国を結ぶ「瀬戸大橋」。香川県にある瀬戸大橋記念館には、ある男の銅像がある。男の名は「杉田秀夫」。肩書きは「本州四国連絡橋公団坂出工事事務所 初代所長」。一体なぜ、事務所長が銅像になっているのか?そこには大規模な橋の建設にかけた熱い思いがあった!多くの人の夢と希望を乗せた、本州と四国をつなげる瀬戸大橋建設プロジェクト。その一大プロジェクトの裏側、誰も知らない壮絶な男・杉田秀夫の生き様に迫る!

スポンサーリンク


mamマム365 - にほんブログ村

にほんブログ村 ニュースブログへ
にほんブログ村