福岡大学ワンゲル部ヒグマ事件カムエク山でのヒグマの習性と教訓は

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件カムエク山でのヒグマの習性と教訓は
ヒグマ日高山脈大学生事件 5人のうち3人が!福岡大学ワンゲル部員メンバーが知らなかったヒグマの習性と教訓は?

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目次

福岡大学ワンゲル部ヒグマ事件とは

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件
福岡大学ワンゲル部員日高山系遭難事件
とも呼ばれている。

ヒグマ事件は、1970年7月26日から29日にかけて起こりました。

悲劇の舞台となった山の名は、「カムイエクウチカウシ山(以下カムエク山)」。
アイヌの言葉で、「カムイ(神=熊)」が崖から転がり落ちるところ、という意味があるという。

当時、日高山系でヒグマが人を襲うということは、まず考えられなかったそうです。
それが、福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件によって、加害グマの異様な執着心と攻撃性が世の中が初めて知ったということです。

事件から15年後、当時捜索に加わった地元山岳会のメンバーは、こう証言していました。

(当時はクマについて)問い合わせがあれば、日高のクマは声を出したり、ラジオを鳴らしたりすれば、逃げると案内を出していたとそうです。

参加したメンバー5人は、同好会から部に昇格するために
選ばれたメンバーだったという。

A 竹末一敏さん(リーダー) 20歳
B 滝俊二さん(サブリーダー) 22歳
C 興梠盛男さん 19歳
D 西井義春さん 19歳
E 河原吉孝さん 18歳

2週間かけて日高山脈の難しいコースを縦断するコースでした。

福岡県には、ヒグマがいないため、ヒグマに出くわしても
怖がらずに様子を見ていたという5人の福岡大学ワンゲル部員。
ヒグマが執念深いということを知っていれば。。。

1970年7月25日、中間地点のカムイエクウチカウシ山 (1979m) の九ノ沢カールでテントを張りました。

そこで雌のヒグマ(3歳)に遭遇します。
ヒグマを見たことがないワンゲル部員は恐れることなく様子を見ていました。
しかし、荷物をあさりだしたので、音を立て追い払い、荷物を取り返しました。

九州にはヒグマがいないため福岡大学ワンダーフォーゲル同好会のワンゲル部員は、ヒグマから荷物を取り返すことを選択してしまった。
それが悲劇の始まりだったと専門家は言っています。

ヒグマの習性、教訓は

野生動物研究家の木村盛武は次の指摘をしています。

ヒグマがあさった荷物を取り返してはいけない
彼らは最初にヒグマに遭遇した際、ヒグマにあさられた荷物を取り返してしまったことで、ヒグマから敵とみなされてしまった。ヒグマは非常に執着心が強い動物のため、一度ヒグマの所有物になったものを取り返すのは無謀な行為である。

ヒグマに遭遇したらすぐに下山しなければいけない
彼らはヒグマに遭遇したものの、身の危険をすぐに感じず下山しなかった。Aの母は北海道放送のインタビューで「カムイエクウチカウシ山はAが日頃から行きたがっていた山だったので、どうしても登頂したかったのかもしれない。」と述べている。

ヒグマに背を向けて逃げてはいけない
ヒグマは背を向けて逃げるものをイヌのように追いかける習性がある。例え、敵ではないと認識していても、背を向けて逃げると、本能的に追いかけてしまうため非常に危険である。

事前にヒグマに出会った時の対処法をチェックしておかなければならない
彼らはヒグマにあまり詳しくなかったので間違った対処をしてしまった。

ヒグマは時間や天候に関係無く行動する
彼らを襲った時間は朝から夜まで規則的では無く、濃霧でも行動するということ。

福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の5人のうち3人が犠牲になってしまったこの事件。

1970年7月29日午後4時半頃、ヒグマを射〇し、事件は終わりました。

ヒグマは解剖されましたが、体内から人や、持ち物を確認できなかった。
ヒグマの執着心、荷物を奪い返された執念からの襲撃だったのでは?
とされています。

ヒグマを見たら、
「とにかく荷物を捨てて背中を見せずに下山する。」
ということでしょう。

北海学園大学のグループの吉田さんが50年後に証言

福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件が起こった時、カムエク山には、福岡大学以外にも、北海学園大学、帯広畜産大学、鳥取大学、中央鉄道学園など複数のグループが入っていました。

注目すべきは北海学園大学のグループで、実は彼らは、福岡大学のメンバーが襲われる前日、同じクマと思われるヒグマに遭遇し、やはり襲撃を受けながらも、犠牲者を出すことなく難を逃れていることがわかったのです。

2つのグループの明暗を分けたものは、いったい何だったのか。

当時、北海学園グループの元メンバーの吉田氏が50年経って
「あれから50年経ったのか、と。自分の経験が今後何かの役に立つなら、お話しておこうと思いました」とインタビューに初めて答えています。

吉田さんは、今でも思い出すと眠れないというくらい衝撃的な経験をしたのでした。

北海学園のヒグマの遭遇(吉田さん証言)

吉田さんは事件当時37歳で、北海学園の出身ではなく山仲間で北海学園の2部の学生だった人に誘われて参加したそうです。

北海学園岳友会は、総勢11名で3つのチームを組んで別々のルートでカムエク山に挑んでいました。
吉田さんは、B氏と学生3人の5人のパーティでした。

1970年7月24日14時20分、シュンベツ岳(1852メートル)の頂上に到着した時でした。

ササ藪に入ると音がして、そこでヒグマを目が合った。
怖いと思わず、みんなにクマがいたぞと知らせると、「どれどれ」とみんなは見に行ったそうです。

当時は、ヒグマは人を襲ったことがなかったため、恐怖はなかったといいます。

しかし、そのヒグマは少し違って見えたといいいます。

「不気味だったのは、まるで我々を“待っていた”ように見えたことです。シュンベツ岳の頂上で、いつも登山者が飲んだり食べたりして休憩することを知っていたんだと思います。そこにいけば人間が捨てた食べかすなどにありつける、と」

ヒグマは、まっすぐ近づいてきました。

「人間を怖がる様子もない。それまで山でヒグマを怖いと思ったことは、ありませんでしたが、一方で小さい頃よく大人から〝ヒグマは怖いもんだ〟と聞かされてもいた。それで、慌ててキスリングを担いで、頂上から降りたんです」

するとクマは追いかけてきたため岩の上に登って、クマとのにらめっこすること3分。

うなり声をあげながら、クマは飛びついてきました。
全員が身をかわすと反対がわの斜面に転がり落ちていき、
しかし、すぐに体勢を立て直し、再び向かってきたといういいます。
みんな、荷物を落として逃げました。

振り返るとクマは追いかけてきませんでした。
荷物の中の食料を漁っていたのかと思われました。

5人は、別ルートで登っていた北海学園グループとキャンプ地で合流。
「クマにやられた」と言っても初めは信じてもらえなかったそうです。

翌日、25日早朝、荷物の回収に現場の戻ってみると、3つあった大きなキスリングのうち2つは、跡形もなく消えていました。

残されたザックの中身は、岩の上にキレイに並べてあり、まるで人間が並べたようだったの手記に書いてありました。

吉田さんも
「水筒でもなんでも、ぜんぶ爪で裂いてありました。それを見て“またクマが来るかも”と怖くなって、急いでその場を離れました」
と言っています。

同じ日の7月25日、福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の5人は、
シュンベツ岳を経て、15時20分、九の沢カールに到着し、テントを設営していました。
ここから、福岡大学ワンダーフォーゲル同好会ヒグマ事件がはじまったのです。

25日の夜、ヒグマにテントで荷物をあさられ、音を追い払います。翌朝、26日再びヒグマが現れて、テントを倒し、メンバーはテントの反対側から逃げ出し、そのうちの2人に助けを求めるように下山するようにリーダーが指示を出しました。

午前7時10分、吉田さんたちは、救助を求めた2人を出会うのでした。
自分たちもヒグマの遭遇して荷物を奪われて逃げてきたと話し、一緒に下山しようと言うも、仲間を置いていけないと戻ると言い、食料と燃料を分け、ハンターを呼ぶことを約束して別れました。

助けを求めた2人うちの一人は、その後、ヒグマの被害にあってしまいました。
B氏の手記には、その時の恐怖の顔が忘れられないと書かれていました。

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福岡大学ワンゲル同好会ヒグマ襲撃事件の経緯

福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の5人は
1970年7月12日午前9時、博多駅から列車で出発。
14日に新得駅へ到着。

午後2時半、芽室岳へ入山し、芽室岳からペテガリ岳へ日高山脈を縦走する計画でした。

7月25日、中間地点のカムイエクウチカウシ山 (1979m) の九ノ沢カールでテントを張ります。
ここでヒグマに遭遇します。

様子を見ていたが、荷物をあさりだしたので、音を立て追い払い、荷物を取り返すことに。

その夜、再びヒグマが現れテントに穴を開けるもその後は現れなかった。

26日の早朝、またヒグマが現れてテントを倒される。
メンバーは、テントの反対側の入口から脱出し逃走します。

午前5時、リーダーの竹末一敏さん20歳は、サブリーダーの滝俊二さん22歳と河原吉孝さん18歳を救助を呼ぶため下山するように指示します。

午前7時10分、北海学園大学の北海岳友会のパーティ10人に出会います。
2日前にヒグマに襲われて逃げてきたというのでした。
一緒に逃げようという北海岳友会のメンバーに

滝俊二さんと河原吉孝さんは
「仲間を残して逃げれない、仲間と合流してから下りる」と言い切りました。

岳友会のパーティは食料と燃料を分けて、必ず救援隊とハンターを呼ぶことを約束して下山していきました。

残った3人は、午前6時10分、ヒグマが消えていることを確認。
荷物を半分取り戻します。
疲れて、数時間眠ってしまった。

ヒグマの気配がなかったことで稜線に戻って行きました。
この途中で鳥取大ワンゲル部や中央鉄道学園のメンバーとも遭遇し、ヒグマがうろついているという情報を共有します。

午後3時、救助を呼びに行っていた滝俊二さんと河原吉孝さんが合流。
壊されたテントを修理して、安全と思われる別の稜線へ移動し、そこで改めて設営。
安堵感からか5人は夕食を食べることにしたという。

ヒグマの1人目の犠牲

午後4時半、ヒグマが姿を現す。
テントから逃げ出すも、ヒグマはテントから離れる様子がなかったといいます。
テントに執着があるだったと。

福岡大学ワンゲル部員はテントや荷物をあきらめ、先ほど出会った鳥取大ワンゲル部に泊めてもらおうと決めます。

午後6時30分、沢を下っているときにヒグマが自分たちを追いかけてくるのが見えました。

慌てた彼らは、急いで逃げ出してしまいます。
それぞれ、バラバラに逃げ出すも河原吉孝さんだけが一人別の方に
逃げていきヒグマは河原吉孝さんを追いかけて。。
その後「ギャー!」という悲鳴と「畜生!!」と叫んだ声が聞こえたといいます。

鳥取大ワンゲル部に竹末一敏さんは必死に助けを求めます。
鳥取大ワンゲル部は事の重大さに気づき、焚き火を起こしたり
ホイッスルを鳴らすなどして、福岡大ワンゲル部員に自分たちの居場所を教えました。

そして助けを求めるために、福岡大ワンゲル部員のために
物資とテントはそのまま置いて、
鳥取大ワンゲル部は、下山して行きました。

ヒグマの2人目、3人目の犠牲

バラバラに逃げた残った4人のうち、3人は合流できました。
リーダーの竹末一敏さんとサブリーダーの滝俊二さんと
西井義春さんです。

もう一人の興梠盛男さんとは合流できずにいました。
リーダーの竹末一敏さんが呼び掛けるも一度返事があったが
聞こえなくなったと言います。

興梠盛男さんには、竹末一敏さんの声は聞こえていたと言います。興梠盛男さんはメモを残していて分かったことです。

自分のすぐ近く、20mほど下の崖にヒグマがいたのが見えていて
返事が出来なかったそうです。

3人は鳥取大ワンゲル部の荷物の所にはたどり着くことはできずに
その夜は岩場で過ごすことになりました。

翌日27日、朝から霧が立ち込めていていたが、3人は、離れた河原吉孝さんと興梠盛男さんを助けたい一心で
午前8時、出発します。

出発から15分後、目の前にヒグマに現れます。
竹末一敏さんの2メートル前だったそうです。
そのまま、竹末一敏さんは逃げ出し、追いかけていったヒグマの犠牲に。

午後1時、残された滝俊二さんと西井義春さんは、麓まで降り
五ノ沢の砂防ダムの工事現場に到着、二人は助かりました。

自動車を借りて駐在所まで逃げて助けを求め、ヒグマに襲われたと伝えるも、時刻は午後6時を過ぎていて、救助活動は翌日になりました。

興梠盛男さんメモを残す

26日の朝4時半にテントをヒグマに襲われてバラバラに逃げて一人別行動になってしまった興梠盛男さん。

途中、リーダーの声が聞こえるも返事ができずに合流できなかった。

興梠盛男さんはメモを残していました。
それで予測された行動は、鳥取大ワンゲル部のテントに潜り込んでいたという。
疲れ果てた興梠盛男さんは、寝袋の中に入り眠り込んでしまった。
27日の朝、怖くてテントから外に出ることができず、
残された食料を食べていた。

しかし、午前7時、外を見ると5m上にすでにヒグマがいた。
もはやどうしようもないとメモが残っているという。

興梠盛男さんのメモ

26日午後5時。夕食後クマ現れるテント脱出。鳥取大WVのところに救助を求めにカムイエク下のカールに下る。

17:30 我々にクマが追いつく。
河原がやられたようである。
オレの5m横、位置は草場のガケを下ってハイ松地帯に入ってから20m下の地点。
それからオレもやられると思って、ハイ松を横にまく。するとガケの上であったので、ガケの中間点で息をひそめていると、竹末さんが声をからして鳥取大WVに助けを求めた。オレの位置からは下の様子は、全然わからなかった。クマの音が聞こえただけである。竹末さんがなにか大声で言ってた、全然聞きとれず、クマの位置がわからず。

ガケの下の方に2、3カ所にたき火が見える。テントにかくまってもらおうと、ガケを5分ぐらい下って、下を見ると20m先にクマがいた。オレを見つけると、かけ上って来たので一目散に逃げる。前、後ろへ横へと転び、それでも振りかえらず前のテントめがけて、やっと中へかけこむ。しかし、誰もいなかった。しまった、と思ったが、もう手遅れである。シュラフがあったので、すぐ一つを取り出し、中に入り込み大きな息を調整する。しばらくすると、なぜか安心感がでてきて落着いた。それでもkazeの音や、草の音が、気になって眠れない。鳥取大WVが、無事報告して、救助隊が来ることを祈って寝る。

27日 4:00 目が覚める。
外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時までテントの中にいることにする。
テントの中を見まわすと、キャンパンがあったので中を見ると、御飯があった。
これで少しホッとする。上の方は、ガスがかかっているので、少し気持悪い。
もう5:20である。
また、クマが出そうな予感がするので、またシュラフにもぐり込む。
ああ、早く博多に帰りたい

7:00 沢を下ることにする。にぎりめしをつくって、テントの中にあったシャツやクツ下をかりる。テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる。

8:00頃まで・・・・(判読不能)しかし・・・・・(判別不能)を、通らない。他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。いつ、助けに来るのか。すべて、不安でおそろしい・・。またガスが濃くなって・・・・

福岡大ワンゲル部の救助活動開始

27日の夕方、五ノ沢の砂防ダムの工事現場に到着して救助を求めた滝俊二さんと西井義春さん

翌日28日、ハンターによる救助隊が結成され行方不明となった3名の捜索が始まりました。

ヒグマは29日にハンターに発見されハンターによって打たれました。
29日、河原吉孝さん、竹末一敏さんが、更に翌日30日、興梠盛男さんが発見されました。

3人の検〇の結果、3人の〇因は「頚椎骨折および頚動脈折損による失血〇」

北海学園大学と福岡大学の違いは

福岡大ワンゲル部クマ事件の原因として常に指摘されるのは、ヒグマからキスリングを取り返したことで、ヒグマを怒らせてしまった、という点です。

ヒグマに詳しいセンターの理事長によると
「確かにヒグマはいったん自分の収穫物と認識したものには強い執着心を示します。とくにメスはオスに比べて非常にしつこい」
「山に食料の乏しいこの時期のヒグマは、普通はハイマツの実を食べて秋までしのぎます。ところが加害グマは現場周辺にハイマツ帯があるにもかかわらず、最初からザックの中の人間の食糧を狙っています」

ここで吉田さんの証言が思い出されます。
「我々を待っているかのようだった」

「事件より前、どこかのタイミングでこのクマは人間の食糧を口にし、相当いい思いを味わったはずです」

人間の食べ物は美味しいと知ってしまったヒグマが人間を待っていたと考えらえるというのです。

そしてヒグマの自分の収穫物と認識したものには強い執着心を荷物を取り返すことで怒らせてしまったための事件になってしまった。

それを証明するかのように、福岡大ワンゲル部の被害は、3人とも服を剥ぎ取られていて、ハンターたちが絶句するほどだったという。

ヒグマは解剖されたが、体内からヒトや、持ち物などは確認できなかったという。

ヒグマの執着心の強さによる襲撃だったと分かると専門家は言います。

この事件を教訓に

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2019年4月17日(水19時00分~23時07分の放送

以前にもこの事件を取り上げられた番組がありました。

福岡大学ワンゲル部員の生死を分けた行動とは?
この事件での教訓が生かされていることを祈ります。

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