藤田信雄、アメリカ本土を爆撃した日本兵がブルッキング名誉市民になったわけはがアンビリバボー

藤田信雄、アメリカ本土を爆撃した日本兵がブルッキング名誉市民になったわけはがアンビリバボー

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目次

藤田信雄さんはどんな人

藤田信雄さんと聞いてもよくわからないのでプロフィールから

藤田信雄のプロフィール

藤田信雄  ふじたのぶお
生誕    1911年(明治44年)10月
死没    1997年(平成9年)9月30日
満85歳没
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴    1932年 – 1945年
最終階級  飛行兵曹長(中尉)
除隊後   ブルッキングズ市の非公式大使

帝国海軍の伊号第二五潜水艦(伊25)から水上機を飛ばし
史上唯一アメリカ合衆国本土に対して航空機による爆撃を実施した日本兵。
後にルックアウト空襲とよばれる爆撃として知られるようになる。
日本軍にとっては失敗だったため公表されていなかった。
「臭い物に蓋をする」風習は昔からあった
これもそのひとつのようです。

藤田信雄さんが受けた日本軍の指令は

藤田信雄さんが受けた日本軍の指令は
太平洋戦域のアメリカ海軍の資源を奪い去るため、焼夷弾を使用してオレゴン州ブルッキングズ市に近い太平洋岸北西部に大規模な山火事を発生させるという任務だった。

1942年4月21日、軍令部に呼び出され空爆命令を拝する。
出発前日の8月14日に家族に宛てた遺言書を残している。
8月15日、藤田信雄は横須賀より伊25でアメリカへと向かった。

一度目の出撃

9月9日水曜日の午前6時
藤田信雄と奥田兵曹が搭乗するE14Yは2個の焼夷弾(合計155キログラム)を積み飛び立った

しかし、積んだ2基の焼夷弾のうち、一個は不明。
もう一個は
オレゴン州のエミリー山脈のホイーラーリッジに落ち、
ブルッキングズの東約15キロの地点で小規模の火災が発生したが、アメリカ林野部によってすぐに鎮火されった。

前夜に雨が降っていたため森林はとても湿っており、結果として爆弾の効力はほぼなくなっていた
その後、爆弾の先端部分を含む約25キログラムの断片がアメリカ軍に引き渡された。

帰国後に、藤田信雄さんは上官に、「木を一本折っただけではないか」と叱責されたという。

3週間後の9月29日、藤田は2回目の爆撃を行うため出撃する

ケープブランコ灯台を目印にし、東への90分後のフライトの間に藤田は爆弾を投下し炎を見たと報告したが、
爆撃はアメリカ側には認知されることなく終わった。

結果2度とも失敗に終わったが、1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、アメリカ合衆国本土に対する史上唯一の航空機による爆撃だった。

そして、パイロットがちゃんと生還しているところが凄いと言える。

藤田信雄は飛行の腕前が一流だった

藤田信雄さんは1932年(昭和7年)に日本帝国海軍に入隊し、1933年(昭和8年)にパイロットとなる。

藤田信雄さんが乗っていたのは帝国海軍の伊号第二五潜水艦(伊25)で乗機は零式小型水上偵察機(機体略番はE14Y、連合国コード名は“Glen”)
そこから偵察するという任務、飛行の腕前がよかったためとされている。

真珠湾攻撃の時の伊25の任務は他3隻の潜水艦と共にオアフ島の約200キロ北のラインを警戒するというもの。

真珠湾攻撃の後の伊25の任務は、他8隻の潜水艦と共に太平洋岸北西部に沿って警戒行動。

伊25の次の任務は、オーストラリアのシドニー、メルボルン、ホバートの港を、続いてニュージーランドのウェリントン、オークランドの港を偵察すること。

偵察任務ための飛行

1942年2月17日火曜日、藤田信雄さんは市内にある空軍基地を偵察するためにE14Yでシドニー港へ向けて飛び立った。
午前7時30分、伊25へ帰還し、E14Yを分解して防水の格納庫へ収納。

次の任務はメルボルンにおける同様のフライト
バス海峡の西端にあるキング島のウィッカム岬からビクトリア州とタスマニア州の中間地点へと飛び立たった。
2月26日、水上機はポートフィリップ湾を超えメルボルンへと進水した

藤田の次の偵察飛行は3月1日、オーストラリアのホバート
伊25は藤田が3月8日に偵察飛行を行っていたウェリントンのあるニュージーランドへと向かった。

3月13日はオークランド
3月17日にはフィジーを飛んだ

5月28日、アリューシャン列島への侵略に備え、アラスカ州コディアックへの偵察

6月21日、伊25は伊25はオレゴン州アストリア付近にあるアメリカ軍のフォート・スティーブンスに陸軍基地へ砲弾を浴びせた(フォート・スティーブンス砲撃)
その時、藤田信雄さんはデッキにいたという。

その後も偵察を主な任務として日本海軍のパイロットを続け、海軍特務少尉に昇進する。

藤田信雄は自ら特攻隊に志願する

1943年(昭和18年)9月1日より鹿島海軍航空隊に着任、航空隊付教官となる。

藤田信雄さんの飛行の腕前がかわれ教官となる。
エピソードとして

1945年(昭和20年)2月16日に、速度性能と武装で決定的に不利であった零式観測機でグラマンF6Fを迎撃、
格闘性能を活かして1機を未確認撃墜すると言う成果を上げる。
しかし、5機で迎撃するもほとんど撃墜されてしまったという。

さらに、訓練で胴体が太く前方視界が悪い所為か、飛行経験が浅い搭乗員達には離着水が難しく、技量の向上は思うように進まなかった中
「藤田中尉は何でもないように飛び上がり、直ぐにスタントを始めた」
と当時第二河和空にいた皐月雅昭一飛曹が記しているという。

しかし、教え子が次々の戦死していくのが耐えられず、
自身も特攻隊に志願したという。

しかし、終戦になり、藤田信雄さんに特攻命令がでることはなかったという。

戦後、政府首脳に呼び出される

藤田信雄さんは終戦後、地元の茨城県土浦市の戻り工場勤めをしていた。

1962年(昭和37年)5月20日。政府首脳から呼び出されたという。

池田勇人首相と大平正芳内閣官房長官に会い
アメリカ政府が藤田を探していることを告げられ、アメリカへ行けと命じられる。

しかし、日本政府は、この渡米を一切関知しないとさえ告げられる。
藤田信雄さんは戦犯として裁かれると自決用に400年間自宅に代々伝わる日本〇をしのばせて渡米するという覚悟だった。

都合の悪い事は個人のせいにするというのは日本の常套手段だったのですね。

ブルッキングズ市の名誉市民になる

ブルッキングズ市はかつての敵国の英雄である藤田信雄さんをフェスティバルの主賓として招待したのだった。

アメリカで大歓迎を受けた藤田信雄さんは戸惑い、戦犯として裁かれると思った自分を恥じ、
持って行った日本〇を友情の印としてブルッキングズ市に贈った。
そごアメリカでの歓迎に感銘をうけブルッキングズ市との交流が始まります。

1985年(昭和60年)ブルッキングスの3人の女子学生を日本に招待
その時にロナルド・レーガン大統領の補佐官より
「貴公の親切と寛大さの賛美を」と献辞を受け取る

1990年(平成2年)、1992年(平成4年)、1995年(平成7年)にもブルッキングズを訪れている。

1992年にはかつて空爆した地域に平和を象徴して植林を行った。
1995年の訪問時には、藤田が贈った日本〇はブルッキングズ市庁舎から新しい図書館に設けられた「藤田コーナー」の陳列ケースの中に移動された。

その時藤田信雄さんは84歳、市長ら友人3人を乗せセスナ機を操縦し、かつて自分が飛行したものと同じ空路をたどってみせたという。
1997年(平成9年)9月30日 85歳で藤田信雄さんは亡くなるも
その数日前にはブルッキングズ市の名誉市民となっていた。

娘の浅倉順子(あさくらよりこ)さんにより
1998年(平成10年)10月に藤田の遺灰の一部が埋められた。
その場所には

「アメリカ大陸が唯一日本機に空爆された地点」

と書かれた看板が立てられている。

『たけし・さんま世紀末特別番組!! 世界超偉人5000人伝説』で報道

アメリカ本土攻撃は戦後、日本では長い間広く知られることはなかった。

1995年12月29日放送の『たけし・さんま世紀末特別番組!! 世界超偉人5000人伝説』で取り上げられた。

その時は存命だった藤田信雄さんはVTR出演したという。

そして、現在も娘さんの浅倉順子さん、孫の藤田文浩さんがブルッキングスを訪問するなど交流が続いているという。

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