白鳥由栄は脱獄王!網走刑務所さえも。網走監獄近くの寺永法専の願いは届かなかった?

白鳥由栄は脱獄王!網走刑務所さえも。網走監獄近くの寺永法専の願いは届かなかった?

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目次

白鳥由栄(しらとりよしえ)は脱獄王で網走刑務所も脱獄

白鳥由栄は1907年7月31日~1979年2月24日
明治40年生まれで昭和54年に71歳で亡くなっています。

4回も脱獄に成功し、あの網走刑務所さえも脱獄を成功させていて
「昭和の脱獄王」と呼ばれていました。

当時の看守によると、看守達は白鳥由栄の脱獄を阻止するため厳重に警備を重ね、あらゆる手立てを行ったがいずれも振り切られた。
脱獄者を出すと職務怠慢で懲戒処分になってしまうため
看守たちの間では、
「脱獄するなら、自分が当直以外のときであって欲しい」
とう言われていたそうです。

実際に減俸処分になった看守がテレビのバラエティ番組
2017年放送『激レアさんを連れてきた。』で証言しています。

白鳥由栄、脱獄王の特殊な身体能力

身体の関節を簡単に外すことができる特異体質を持っていたという。頭が入るスペースさえあれば、全身の関節を脱臼させて、容易に抜け出すことができたという。

さらに身体能力にも長けており、1日に120kmもの距離を走ることができたという。

怪力の持ち主でもあって手錠を引きちぎることができたことで
その後の収監後は後ろ腕で重さ20kgもの特製の手錠をかけられていたという。
40歳を過ぎても、米俵を両手に持って手を水平にすることができるなど怪力のエピソードが数々あります。

脱獄王白鳥由栄の脱獄歴

白鳥由栄は、26年間もの服役中に4回の脱獄を決行、累計逃亡年数は3年にも及んでいる。

1936年 青森刑務所
針金で手製の合鍵を作り、開錠して脱獄。

1942年 秋田刑務所
ブリキ板に釘で加工した手製の金工鋸で鉄格子を切断し、脱獄。

1944年 網走刑務所
味噌汁で手錠と視察孔を錆びさせ外し、関節を脱臼させ、監獄の天窓を頭突きで破り監視口をくぐり抜けて脱獄。

1947年 札幌刑務所
床下からトンネルを掘り脱獄。視線を上に向けてごまかしながら隠し持った金属片でノコギリを作り、床板を切断。食器で穴を掘って逃走。

1948年 府中刑務所に収監。以後模範囚として過ごし、1961年に仮釈放。

寺永法専は網走刑務所近くの永専寺の住職

寺永法専は1872年~1937年(昭和12年) 65歳没

永専寺は、長らく網走監獄の教誨師を務めた僧侶寺永法専が住職であった寺で、その縁から1924年(大正13年)に旧網走監獄正門が当山の門として払い下げられた。
現在は旧網走監獄正門のある寺として広く知られています。

寺永法専は、「免囚保護の父」と言われ、
監獄を出ても頼るあてのない者、帰るための旅費の算段のつかない者、老いて衰弱した者など、どうにも身の振りかたのつかない者ばかりを引き取り、食事を与え、仕事を世話し、からだの衰弱した者には医療手当をし、栄養に気をくばった。

明治40年には免囚保護団体「網走慈恵院」を創立。

中には、逃走するもの、再び犯罪を犯す者も少なくなったと言います。
町の人からは、「泥棒の下宿屋」「慈恵院ではなく危険院だ」などと言われたりもしたが、寺永法専は、彼らをいたわり続けたという。

寺永法専は昭和12年(1937年)に65歳で亡くなっています。
白鳥由栄は明治40年生まれ、網走刑務所の脱獄をしたのは、
昭和19年(1944年)なので、一緒の時期はないようです。

もしも、白鳥由栄が寺永法専と出会っていたとしたら、
脱獄王とはならなかったのでしょうか。

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網走監獄と網走刑務所は別物か

網走刑務所というと、高倉健さんの「映画網走番外地」
で一躍有名になりました。

最北の過酷な刑務所の状況が全国に知られることになります。
シリーズ化され「新網走番外地」シリーズがその後8本製作されました。

漫画「ゴールデンカムイ」で若者にも知られるようなりました。

網走刑務所の歴史

1890年(明治23年)「釧路監獄署網走囚徒外役所」として開設。
その後「網走囚徒宿泊所」と改称
1891年(明治24年)「釧路集治監網走分監」→「北海道集治監網走分監」と改称し、独立した集治監
1894年(明治27年) 囚人使役廃止。
1896年(明治29年)屈斜路外役所(現在の二見ヶ岡農場)設置。
1897年(明治30年)一時廃監。
1898年(明治31年)北海道集治監分監出張所再設置。
1901年(明治34年)北海道集治監釧路分監が廃止となり、
網走分監が引き継ぐ
1903年(明治36年)「網走監獄」と改称
1909年(明治42年)山火事の飛び火による火災でほぼ全焼する。
1912年(明治45年)復旧工事完成。
1922年(大正11年)「網走刑務所」と改称
1984年(昭和59年)鉄筋コンクリート構造の舎房(暖房完備)建設。
2006年(平成18年)新居室棟完成。

旧網走刑務所は、博物館網走監獄として、移設して
重要文化財、登録有形文化財などになっている。

網走は「理想の地」ブラタモリ

「ブラタモリ#167」は「網走~“最果ての地”網走は“理想の地”!?~」

番組予告では

網走監獄はなぜ作られた?網走がいろんな意味で“理想の地”だった秘密をタモリさんがブラブラ歩いて解き明かす▽タモリVS.脱獄囚!?網走監獄に隠された秘密を探る!

番組内容

「ブラタモリ#167」で訪れたのは北海道の網走市。映画「網走番外地」などから“最果ての地”のイメージがある網走が実はいろんな意味で“理想の地”だった?その謎を探る▽網走監獄が“理想の監獄”だった秘密を博物館で探る
▽昭和の脱獄王がとった作戦とは!?
▽囚人が逃げ切りづらい刑務所の立地の秘密
▽網走港が発展したカギは「帽子岩」にあり?
▽網走は古代北方民族にとっても理想の地だった!「オホーツク文化」とは!?

網走監獄は、山と川に囲まれ、湿地帯にある脱獄が困難な場所の建てられています。

脱獄がしにくいと同時に網走から旭川までの道路を作る労働力として囚人1200人が動員されるため網走監獄が作られました。
湿地帯を100キロの道をたった8ヶ月で作った過酷な作業だったそうです。

囚人1200人、職員200人、その家族を含め2000人が網走に移住し、小さな村から都市化して、監獄城下町になった場所でもあるようです。

網走港は、良港で火山帯だった溶岩岩の帽子岩がとても丈夫なため発展しました。
1923(大正12)年に、網走港修築工事の付帯施設として大型ケーソン製作のために
天然の岩盤を掘削したケーソン製作専用のドライドックが作られ、現在でも現役で使われています。

平成18年度土木学会選奨土木遺産に「網走港帽子岩ケーソンドック」が認定されました。

網走刑務所が歴史秘話ヒストリアに

2019年11月13日(水)22時30分~23時20分の放送の
歴史ヒストリアは

歴史秘話ヒストリア「網走監獄 最果ての苦闘」

映画「網走番外地」や漫画「ゴールデンカムイ」に登場する網走監獄。一体なぜ巨大監獄は作られたのか。脱獄王との勝負の行方。元囚人の更生に人生をかけたお坊さんの秘話。

番組内容
日本最北の監獄、網走監獄。映画「網走番外地」や漫画「ゴールデンカムイ」に登場する。一体なぜ最果ての地に巨大監獄は作られたのか。背景にあった国際情勢とは?そして囚人が投入された過酷な巨大国家事業。過去に2度の脱獄を成功させた脱獄王が網走刑務所へ。本人の肉声から明らかになる脱獄の手口と動機。そしてバトルの行方は。さらに元囚人の更生に人生をかけたお坊さんの秘話。今のまちに引き継がれたある遺産とは?

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