山極勝三郎(やまぎわ かつさぶろう)幻のノーベル賞 「世界初!がんを作った男」 歴史秘話ヒストリア選

山極勝三郎(やまぎわ かつさぶろう)幻のノーベル賞
「世界初!がんを作った男」 歴史秘話ヒストリア選

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目次

山極勝三郎(やまぎわ かつさぶろう)幻のノーベル賞とは
歴史秘話ヒストリア選で

歴史秘話ヒストリア選
「まぼろしのノーベル賞 世界初!がんを作った男」
2018年11月28日(水)22時25分~23時10分の放送

番組予告では

およそ90年前、日本人初のノーベル賞に、もっとも近づいた男・山極勝三郎。
世界で初めて人の手でがんを作る実験に成功し、がん研究の新たな道を切り開いた医学者に迫る。

番組内容
今年も日本人の受賞でわいたノーベル賞。およそ90年前、日本人初のノーベル賞にもっとも近づいた男がいた。
山極勝三郎は20世紀はじめ、がん研究で世界のトップに立った医学者だ。人の手でがんを作る実験を世界で初めて成功させ、ノーベル賞間違いなしと期待された。
しかし、まさかの落選。ところが、山極の死後、衝撃の事実が発覚!ノーベル賞をめぐる物語は再び動き始める。
がん研究の未来を切り開いた男の知られざるドラマ。

なぜ、幻のノーベル賞と言われたのか?
なせ、ノーベル賞を取れなかったのか?
山極勝三郎さんが亡くなった後にわかったことは

山極勝三郎(やまぎわ かつさぶろう)のプロフィール

まず、山極勝三郎さんのことを調べました。
そんな大昔にノーベル賞を取れたかもしれないほど医学を?

生年月日は1863年4月10日(文久3年2月23日)
~1930年(昭和5年)3月2日)

山極勝三郎さんが生きていた時代とは
生まれたのは文久とは、明治の3つ前の元号となります。
それは、江戸時代15代将軍徳川慶喜の時代になります。

江戸時代(1615年9月5日~)
嘉永 1848年4月1日
安政 1855年1月15日
万延 1860年4月8日
文久 1861年3月29日
元治 1864年3月27日
慶応 1865年5月1日

明治 1868年1月25日
大正 1912年7月30日
昭和 1926年12月25日
平成 1989年1月8日

13代将軍 徳川家定(とくがわいえさだ)
嘉永6年 (1853年) 11月23日~安政5年 (1858年)7月6日

14代将軍 徳川家茂(とくがわいえもち)
嘉永6年 (1853年) 11月23日~安政5年 (1858年)7月6日

15代将軍 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
安政5年(1858年)10月25日~ 慶応2年(1866年) 7月20日

信濃国上田城下(長野県上田市)の
上田藩士の山本政策(まさつね)の三男として生まれる。

同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指す。

1880年に東京大学予備門、1885年には東京大学医学部(のちの東京帝大医学部)に入学。
首席で卒業する。

1891年 東京帝大医学部助教授
1892年 ドイツに留学 コッホ、フィルヒョウに師事
1895年 東京帝大医学部教授に就任

専門は病理解剖学。癌研究では日本の第一人者だった。

1915年 はじめて化学物質による人工癌の発生に成功
1919年 帝国学士院賞を受賞
1923年 帝大を定年退官
1928年 ドイツからノルドホフ・ユング賞を受賞

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山極勝三郎は4度ノーベル賞でノミネート

山極勝三郎さんは4度ノーベル賞にノミネートされています。

1925年、1926年、1928年
それと亡くなってから1936年と4回、ノーベル生理学・医学賞にノミネートされています。

1925年と1936年は日本からのみの推薦だった。
1926年と1928年は海外からで、フィビゲルとの連名での推薦でした。
その中でもっともノーベル賞の受賞の可能性が高かったのは、1926年と言われています。
フィビゲルが山極勝三郎を推薦しましたが、フィビゲルが受賞しています。

当時の資料によると
ノーベル委員会は、2人のスウェーデン人医学者に、フィビゲルと山極についての審査を依頼した。

その一人のヘンシェンは、フィビゲルと山極勝三郎に高い評価を与え、
「人工癌はノーベル賞に値し、もし寄生虫による発見者であるフィビゲルと、タールによる発見者である山極の両名で賞を分けるとすればそれは当然である」
と両名でのノーベル賞を推薦した。

しかし、もう一人のバーグストランドは人口癌については高い評価ではなかった。
バーグストランドは他の人(デレーユ)を強く推薦していたが、
デレーユについては、ヘンシェンは反対し、二人は対立したという。
そして「フィビゲルは山極が科学界に入ってくる以前に、発見の根拠となる素晴らしいアイディアを持っていた」として

フィビゲルのみの受賞になったという。

ヘンシェンは日本で謝罪、東洋人だから受賞できない

ヘンシェンは、1966年10月に東京で国際癌会議の際に行った講演で
「私はノーベル医学賞を山極博士に贈ることを強力に提唱したものです。不幸にして力足らず、実現しなかったことは日本国民のみなさんに申しわけがない」

と謝罪したという。

選考委員会が開かれた際に「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」
という発言があったことを明かしました。

しかし、科学ジャーナリストの馬場錬成はその著書
『ノーベル賞の100年』(中公新書)の中で、3回にわたるノーベル財団への取材経験から、ノーベル賞選考における日本人差別は
「100パーセントないだろう」と指摘している。

山極勝三郎の研究は

山極勝三郎は、「環境がガン細胞を作る」と言っていた。
特定の癌化する細胞があるのではないと述べている。

当時は、癌の発生原因は不明でした。
煙突掃除夫に皮膚癌の罹患が多いことに着目して刺激説を採り、
実験を開始することに。

そして、助手の市川厚一と共に3年以上に渡って反復実験を行った結果
1915年に人工癌の発生に成功したのです。

山極勝三郎はこの実験に成功してことで、癌の免疫に関する研究に方向を変えていったのですが、この研究では大きな結果を残せなかったとされています。

医者ならば、癌を知ったら、治したいと思うのは当然なのかもしれないです。

ヘンシェンは山極勝三郎を強く推薦し、ノーベル賞を受賞したフィビゲルも推薦している。

やっぱり、東洋人だったから取れなかったのでしょうか。

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