小川よういちはサハリンの日本人野呂静江さん、長尾洋子さんの一時帰国を実現させた日本サハリン協会設立

小川よういちはサハリンの日本人野呂静江さん、長尾洋子さんの一時帰国を実現させた日本サハリン協会設立
小川よういちはサハリン生まれで
2017年7月31日10時49分、85歳で亡くなっています。

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戦後、日本に戻れなかったサハリンの日本人の方々が日本に戻れるように、尽力された方です。
現在の日本サハリン協会の前身の「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」を設立された方です。

目次

小川よういちさんの生い立ちは

小川よういちさんは、1931年、サハリン州コルサコフ市生まれ。
日本では、樺太大泊町谷町(からふと)と呼ばれていた北方四島の一つの島です。

父は薬剤師で1939年、生まれ育った樺太から一家で北海道の小樽に引き揚げました。

1950年4月 19歳の時 衆議院速記者養成所に入所
1951年9月 一級速記士となり、日本経済新聞社に入社。
働きながら、夜間大学に通い、勉強します。
1957年3月 中央大学法学部卒業。
1959年5月 日経新聞労組書記長に
61年   7期新聞労連書記長
1968年6月 日本経済新聞社に復職

小川よういちがサハリンを訪れ、樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会を

サハリンは、1905年 日露戦争に勝利した日本が樺太の南半分を統治、国策として移住を奨励、最盛期には40万人の日本人が住んでいました。

しかし、第二次世界大戦で日本が敗戦し、ソ連と日本と国交断絶しサハリンに入ることはできなくなっていました。

北海道に引き上げて故郷に帰れない日々でしたが、
子供の頃に過ごした樺太は、故郷でもう一度帰りたいと思っていたそうです。
そんな時、1988年に日本からの墓参の一員としてサハリンを訪れ
ることが機会がありました。

日本人は、いないと思われていたサハリンに 「私は、日本人です。」と声をかけられました。

そこで、サハリンにはたくさんの日本人が残っていることを知るのでした。
そして、行き別れた家族に会いたいという思いを現実にと、翻弄するのでした。

1989年12月「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」創設、事務局長

北方領土に残された残されたままの日本人の帰国運動を開始

1990年5月 12人の残留法人の一時帰国が実現
1991年7月「外務大臣表彰」を受ける

1997年3月 野呂静江さん三女の笑子さん57歳孫の長尾洋子さん一家とともに永住帰国を果たす。

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小川よういちさんと野呂静江さん、長尾洋子さんとの出会い

1988年、戦後初めて、サハリンにお墓参り行けた時、「私は日本人です。」
と声をかけて生きたのが「野呂静江さん」でした。

サハリン残留法人1世で当時野呂静江さんは、60歳半ばだったそうです。

そして、小川よういちさんに訴えかけました。

「ずっと日本人であることを隠して、ここサハリンで生きてきました。私たちが帰国できるよう、日本政府に頼んでもらませんか」

小川よういちさんは当時、日本経済新聞社に勤務していました。
が、仕事を休んで残留日本人を永住帰国することに尽力します。

その頃、日本では、サハリンに日本人が残っていることを全く認識されていませんでした。
引き揚げが終わったサハリンでは、自らソ連に残ったと、日本人としての戸籍を排除されてしまっていたのでした。

1989年12月「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」創設、事務局長

野呂静江さんもサハリンで、残留日本人の名簿作りに翻弄します。
その数、300人にも上っていたのでした。

「10歳ごろから、ばあちゃんが日本の小川さんたちとホテルで真剣に打ち合わせするのを黙って聞いていました。どんどん人数が増えて、ユジノサハリンクスにこんなに日本人がいたのかと、子供心に驚いたのを覚えています」

と野呂静江さんさんの3女笑子さんの娘、長尾洋子さんは、
まだ、子供でしたが、近所の人と真剣に日本人の名簿作りをしている姿をよく覚えていたそうです。

そして、遂に1990年5月、ついに12人の残留法人の一時帰国が実現します。

さらに、野呂静江さんさんが3女の笑子さん一家、長尾洋子さんも一緒に日本に永住帰国するのでした。

野呂静江さんの生い立ちは

1923年2月、真岡で生まれ。
10人きょうだいの長女で、17歳のとき漁船の機関士だった夫と結婚
長男をもうけた直後の1944年、夫は兵役にいったまま行方不明に。

生活の苦しさもあり、親切にしてくれた建設業のロシア人の夫と1947年に再婚します。
家族や幼い弟妹たちのためでもありました。
しかし、その弟妹と両親たちは、野呂さんを1人置いて日本へ引き上げていきました。

さらに、日本から連絡が、前夫が生きていて息子を連れて帰ってこいとの連絡でした。
しかし、その時、野呂静江さんはロシア人と夫の子を妊娠していました。

悩んだ末、息子だけを日本に返すことにしました。
そして、ロシア人としてロシア人の夫のサハリンで暮らすことを決心するのでした。

それゆえ、行き別れた、息子さんに会いたいと強く思っていたのでした。

2018年 野呂静江さんは95歳での日本を満喫し、永眠されました。
正に激動の人生だったでしょう。

長尾洋子さんは10代で日本へ

長尾洋子さんは、野呂静江さんのお孫さんに当たります。

1997年日本に永住帰国するときに一緒に日本に来ました。
サハリン残留3世。
3世になると、ネイティブの言葉は生まれ育った国の言葉になります。
2世だった野呂静江さんの3女の笑子さんも言葉で苦労したそうです。

孫の洋子さんは、中頓別役場の職員で、帰国当初からの世話もしてくれた長尾亨さん1998年に結婚しました。

現在は、一時帰国者たちの通訳を務めているそうです。

小川よういちがアンビリバボーで放送に

2020年1月30日(木)19時57分~21時00分の放送のアンビリバボー

奇跡体験!アンビリバボー【家族と引き裂かれた人々のため国と闘った男】

時代に翻弄されサハリンと日本に引き裂かれた家族。祖国の地を踏み、肉親に会いたい…そんな帰りたくても帰れない日本人の存在を知ったひとりの男が立ち上がった

番組内容
日本からもっとも近い“海外”サハリン。かつては樺太の名で呼ばれた日本の領土だった。
1905年、日露戦争に勝利した日本が樺太の南半分を統治、国策として移住を奨励、最盛期には40万人の日本人が住んでいた。
しかしその後、太平洋戦争が勃発。終戦直前、ソ連は日本と国交断絶、一方的に宣戦布告、実質的に樺太を支配するが、1988年にはサハリン出身者は再び故郷の地を踏むことができるようになった。 サハリン生まれの小川よういちも久しぶりに故郷に戻ったひとりだった。
小川が宿泊先のホテルに向かっていると「日本の方ですよね?」と突然、日本人女性に日本語で話しかけられた。
戦後には日本政府が何年にも及ぶ引き揚げ事業を行い、もはやサハリンには日本人はいないはずだった。
だが、街中でまた別の日本人に会った。
彼女によるとなんとサハリンにはまだ300人以上の日本人が住んでいるのだという。
疑問に思った小川は、野呂静江と名乗るその日本人女性に引き揚げ事業の際になぜ日本に帰らなかったのか理由を尋ねた。
「帰りたくても帰れなかったのよ」「生き別れた息子に会いたい…」 野呂が語った話には時代によってサハリンと日本に引き裂かれた家族のたくさんの葛藤があった…。
胸を痛めた小川は必ず息子さんに会えるようにようにします!と約束。
しかし国との見解の食い違い、40年以上も離れ離れになり居場所もわからない肉親探し…問題解決は容易ではなかった。

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