大谷佐知子はバレーで中田久美が勝てなかった天才だった!現在は?消えた天才 ~一流アスリートが勝てなかった人大追跡SP~で

大谷佐知子(おおたにさちこ)はバレーで中田久美が勝てなかった天才だった!現在は?消えた天才 ~一流アスリートが勝てなかった人大追跡SP~で

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目次

大谷佐知子はバレーで中田久美が勝てなかった天才

TBSテレビ 2018年9月30日(日) 21時00分~22時48分 放送
「消えた天才 ~一流アスリートが勝てなかった人大追跡SP~」

で特集されます。

番組予告は

▼バレー中田久美が唯一勝てなかった!15歳で共に全日本入りした天才…なぜ突然消えた!?
▼桑田・清原のPL優勝メンバーは今…10億円借金生活&世界一の大企業に!?

番組内容
▼長嶋一茂が大学日本代表時代、絶対に勝てなかった天才打者…米国160キロ投手から唯一ホームラン!なぜプロに進まなかった?(秘)職業に衝撃転身
▼「今、日本最速の男」山縣亮太が絶対に勝てなかった!サッカー部からきた天才ランナーが消えた…漫画のような奇跡の感動秘話にスタジオ…涙
▼甲子園史上最強!桑田&清原率いるPL野球部メンバー達は今…追跡すると、借金10億円生活…世界一の大企業で大成功…壮絶人生が明らかに

出演者
MC
バナナマン(設楽統/日村勇紀)

ゲスト
ヒロミ/長嶋一茂/平野ノラ/澤部佑/佐藤栞里/今田美桜

VTRゲスト
桑田真澄(野球)/中田久美(バレー)/山縣亮太(陸上)/田中理恵(体操)ほか

公式ページ
◇番組HP http://www.tbs.co.jp/kietatensai/

大谷佐知子のある約束とは

番組の予告によると、

天才アタッカーが消えた衝撃の真相と中田も知らなかった34年前の特別な約束が明らかになる。

その約束とは?
番組中にあふれ出た大粒の涙の理由を初告白!

分かり次第、追記します。
追記:

現在大阪府吹田市の教育委員会で働いている。

大谷佐知子さんは、ロサンゼルスオリンピックの後、ソウル五輪の1年前にヒザの大けがをしてしまった。
リハビリをして1年後に復帰できるというケガだった。

しかし、大谷佐知子さんは、1年の手術してリハビリするという
選択肢はなかった。

その理由は「ソウル五輪は自分たち中心になって金メダルを獲ろう」
と約束したからだった!

手術をすれば、ソウル五輪に間に合わないと手術を拒んだのだった。
しかし、無理をしたため、選手生命を失ってしまった。

中田久美さんは、15歳で日本代表に選ばれた天才と言われていた。しかし、もう一人、15歳で代表に選ばれたのが、大谷佐知子さん。
この、大谷佐知子さんに中田久美さんは「勝てなかった」と思っていました。

中学からバレーを始めた大谷佐知子さん、わずか1年にも関わらず
天才、大谷佐知子さんはは中田久美さんと共に史上最年少15歳で日本代表入り。

大谷佐知子さんについて中田久美さんは
「これまで何人もの選手とプレーしてきたが、(彼女が)トップ」だと断言。

2年後輩の大林素子さんも
「エースとしてたどり着きたい憧れの人」
だと敬意を表し、これまでのバレーボール人生の中で
「こんなすごい選手を見たことがない」と称えている。

大谷佐知子のプロフィール

氏名    大谷佐知子(おおたにさちこ)
高校までは 大谷佐知代と名乗っていた
生年月日  1965年8月3日
年齢    53歳
出身地   大阪府吹田市
身長    178cm
体重    74kg
血液型   O型

愛称    オウ
ポジション MB
指高    225cm
利き手   右
スパイク  307cm
ブロック  289cm

大阪市立蒲生中学校2年の時にバレーボールを始める。
中学3年の時に山田重雄に抜擢され、中田久美と共に全日本入りする。
(全日本代表 – 1980-1986年)

四天王寺高等学校に進学。
エースアタッカーとして活躍、高校三冠(インターハイ、国体、春の高校バレー)の原動力となる、

1980年 15歳(中学3年)で全日本代表となる。
1983年 アジア選手権で優勝し、ロサンゼルスオリンピックの出場権を獲得する。

1984年 ロサンゼルスオリンピックに出場 銅メダルを獲得
1984年 カネボウに入社(1984-1992年)
数年のブランクの後

1997年 東北パイオニアに入社
1999年 現役引退(34歳)

受賞歴
1986年 第19回日本リーグ 猛打賞
1999年 第1回 V1リーグ 敢闘賞

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大谷佐知子の現在

大谷佐知子さんの現在は、大阪府吹田市の教育委員会で働いている。

東北パイオニアで現役引退後
MIPスポーツ・プロジェクト(特定非営利活動法人)に参加し、バレーボールの指導などを行っている。

特定非営利活動法人 MIPスポーツ・プロジェクトとは

団体名 特定非営利活動法人 MIPスポーツ・プロジェクト
法人格 特定非営利活動法人
代表者   倉石 平

法人認証年月日  2001年07月17日

目的

この法人はスポーツ選手及び子供から高齢者まで幅広い人々に対し、スポーツに関する事業を行い、スポーツイベント、セミナーおよびトレーニングプログラムの研究と普及等をとおし、モラル、インテリジェンス、フィジカルのバランスが取れた人間形成の実現に寄与することによって、スポーツ文化の向上を目指すことを目的とする。

となっています。

実際、調べてみるとこんな活動していました。

若いバレーボーラーを育てるために尽力しているのですね。
中田久美さんとどんな約束をしたのでしょうか??

中田久美のプロフィール

中田久美さんを言えば、現在世界バレーの女子監督として
女子のメダル獲得に近づきつつあります。

その厳しさは、見ているこちらも怖くなるほどです。
しかし、アメとムチで優しさもあるようで、選手たちには
「久美さん」と慕われているようです。

氏名   中田久美(なかたくみ)
年月日  1965年9月3日
年齢   53歳
出身地  東京都練馬区
身長   176cm
体重   62kg
血液型  A型
一人っ子

愛称   クミ
役職   監督
ポジション S
指高   229cm
利き手  両利き
スパイク 305cm
ブロック 289cm

名前のクミは誕生日の9月3日から

練馬区立練馬東中学校入学し、バレーボールを始める
(同級生に尾崎豊がいた)
2年生の時山田重雄の英才教育バレーチーム
『LAエンジェルス』に2期生として入団

1980年 大谷佐知子と共に史上最年少の15歳(中学3年生)で全日本代表に選出
1980年 日中対抗にセンタープレーヤーとして出場
その直後セッターに転向する。

1981年 高校は行かず日立に入社(通信制のNHK学園高校に通い卒業)
日本リーグ デビューは16歳3ヶ月、しばらくは最年少記録だった。
1983年 日本代表でスタメンセッターに
1984年 ロス五輪でも銅メダルを獲得
1986年9月 世界選手権で主将
1986年11月 練習中に右膝前十字じん帯を断裂
大けがだったが10ヶ月で復帰

1988年2月 再び右膝を手術。
しかし、完治せず痛み止めを飲んでのプレーになる。
1986年 ソウル五輪出場
1992年 バルセロナ五輪に出場(日本選手団の旗手)
日本女子バレー史上初となる3度目の五輪出場

1992年11月 現役引退
1995年   現役復帰
1996年   アシスタントコーチに就任
1997年   日立を退社

タレントや、バレーボール解説、スポーツキャスター
バレーボール教室などの活動をする。

2005年 父の定年退職を機に長野県に新居を構える。
2005年、2006年 日本バレーボール協会の強化委員
2008年 イタリアプロリーグセリエA・ヴィチェンツァのコーチに就任
2009年 セリエA・ノヴァーラのアシスタントコーチに就任
2011年9月 久光製薬スプリングスのコーチに就任
2012年7月1日付で監督に就任
監督就任1年目にして天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会で優勝という快挙となる。
その後、女子チームで初めてとなる3冠を達成。

2016年10月25日 日本バレーボール協会理事会にて満場一致で、
バレーボール女子日本代表の監督に選出

選手引退後、1993年に結婚しています。
29歳の時で、旦那さんは林隆夫さんと言う方でした。

詳しい事は分かっていませんが、東京の方のようです。
甲子園球児だったようで、やっぱりスポーツを通しての意気投合があったのかもしれません。

しかし、3年で結婚生活を終えています。
お子さんはいませんでした。

旦那さんの父親が林 亮勝(はやし りょうしょう)という
日本の歴史学者で元大正大学学長、大正大学名誉教授という肩書の持ち主。
ご両親とあまりうまくいかなかったとの噂もありました。

中田久美さんは現在全日本女子代表の監督。
選手をメダリストにするために厳しい練習を行っています。

大変だけど、楽しいと中田久美さんは、バレーに人生を賭けています。

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