大峯泰廣(おおみねやすひろ)がサリンを作った土谷正実から自供を取った。宮崎勤からも取った警視庁伝説のエース刑事だった!

大峯泰廣(おおみねやすひろ)がサリンを作った土谷正実から自供を取った。宮崎勤からも取った警視庁伝説のエース刑事だった!

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目次

大峯泰廣(おおみねやすひろ)がサリンを作った土谷正実を落とした

直撃!シンソウ坂上SP【独占スクープ!サリン事件極秘資料!オウムの謎明らかに】

2018年10月4日(木)19時57分~21時54分 放送の直撃!シンソウ坂上SP

番組予告では

警視庁伝説のエース刑事VSサリンを作った“天才”信者!緊迫攻防ドラマ化▽驚くべきサリン製造舞台裏!教祖への愛憎とライバルへの嫉妬…狂気の集団と化す教団

番組内容
今年7月、教祖・麻原彰晃を含めた13人の死刑が執行され、大きな節目を迎えた「オウム真理教事件」を取り上げる。 宗教団体「オウム真理教」が行った数々の犯罪行為の中でも、1995年「地下鉄サリン事件」は死者13人、負傷者6300人以上という犠牲者を出した、前代未聞の無差別化学テロ事件であった。 実はこの事件の解決の裏側には、数々の難事件を解決してきた“伝説の刑事”と“天才信者”と称される“あるオウム幹部”との息詰まるような白熱の取り調べがあったという。番組では、当時の報道映像も駆使しながら、その知られざる攻防をドキュメンタリードラマで描く。

出演者
MC
坂上忍

ドキュメンタリードラマ
金子ノブアキ、秋元才加、遠藤雄弥、大浦龍宇一、井内勇希、吉田宗洋、高橋努 他

大峯泰廣(おおみねやすひろ)は警視庁伝説のエース刑事
あの元死刑囚の宮崎勤を自供させた刑事だった。

そのエース刑事大峯泰廣が呼ばれている地下鉄サリン事件に呼ばれたのだった。

その大峯泰廣の金子ノブアキがドキュメンタリードラマで演じる。
大峯泰廣はどうやって土谷正実元死刑囚を落としたのか

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大峯泰廣は突破口を探していた

村井秀夫は饒舌だった。
ホーリーネームはマンジュシュリー・ミトラ
ステージは正大師
教団では麻原に次ぐナンバー2、科学技術部門最高幹部と見られていた

大阪府立千里高等学校ではただ1人無遅刻無欠席を成し遂げ表彰され
大阪大学理学部物理学科にトップ合格しX線天文学を専攻[3]。大阪大学大学院理学研究科修士課程修了、理学修士となる。

神戸製鋼に入社し金属加工の研究していたが、家庭にも仕事にも
、生きがいを感じなかった

こうしたことからオウムへのめり込んでいった。
家族全員でオウムへ入信することとなった。

元々は人が良く、素直な人間だったため
嘘が付きにくい性格だったようで
つい、口を滑らせてしまうことがあったためか
村井秀夫は口を封じられてしまったようだった。

そして、カメラの前で事件は起こった
村井秀夫は病院に運ばれるも命はなかった。

しかし、その後逮捕された人物たちは事件の指示をしたのは
すべて、村井秀夫のせいになっていた。

土谷正実は天才信者だった

氏名  土谷 正実(つちやまさみ)
誕生  1965年1月6日
東京都町田市
死没  2018年7月6日(53歳没)
東京都葛飾区小菅(東京拘置所)

ホーリーネームは クシティガルバ。
教団では第二厚生省大臣をつとめた

教団の化学者として化学兵器や薬物を製造した人物。

マスコミから化学班キャップと呼ばれた。
ステージは菩師長であったが、地下鉄サリン事件直前に正悟師に昇格した

大峯泰廣はどうやって落としたのか

まず、取り調べでは、壁際に座らせるという。
時間は一日8時間。
多い時で10時間は毎日取り調べたという。

大峯泰廣さん曰く
「落ちるまで」

大峯泰廣さんは、両親と面会させることを決意
ドア越しに両親に合わせるも
両親に気持ちが残ってはいなかったように無表情だったという。

土谷正実がオウム真理教に興味を持ち始めた頃
両親は危機を感じ、部屋に閉じ込めたことがあったのだった。

オウムの弁護士により、土谷正実は解放され
そのままオウムに出家した過去があった。

土谷正実がサリンを作ったことが証明することが事件の解決

土谷正実がサリンの製造に成功してなければ
一連のサリン事件が起きなかったことになる。

サリンを製造するのは難しく、ナチスドイツでも使うのをためらったほどの劇薬だ。

サリンの製造を成功したのは、オウムが初めてだったと言える。

土谷正実が逮捕された容疑は、犯人隠避の容疑
拘留期間は長くても20日間

その間に大峯泰廣さんは、土谷正実を落とさなければならなかった

突破口は遠藤誠一だった

大峯泰廣さんは突破口を探していたところ
土谷正実の上司遠藤誠一の存在が出てきた。

遠藤誠一は生物兵器担当の第一厚生省大臣で土谷正実の直属の上司であった。

氏名  遠藤 誠一
誕生  960年6月5日
北海道札幌市
死没  2018年7月6日(58歳没)
東京都葛飾区小菅(東京拘置所)

しかし、天才の土谷正実と違って化学の実験では失敗ばかりだった。

それを土谷正実はいつも助けていたのに
土谷正実のことは麻原彰晃には言わず、寵愛を受けていたのを
面白くないと思っていたのだった。

そして、その嫉妬心をかりたて
土谷正実の供述を引き出した。

法廷で土谷正実が後悔したことはと聞かれて

土谷正実は裁判が終わり、死刑判決がでても麻原彰晃への信仰心を
覆すことはなかった。

裁判長から「あなたが一番後悔していることはなんですか?」と聞かれ
答えは「遠藤誠一を殴らなかったことです」と答えたほど。

尊師は「人を殴ってでも自分の意見は言うべきだと言っていたのに
しなかったことが私の最大の後悔です」と答えたという。

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