塚原利夫機長が東亜国内航空381便の片輪着陸を成功させた30歳

塚原利夫機長が東亜国内航空381便の片輪着陸を成功させた30歳

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目次

塚原利夫機長の東亜国内航空381便事故とは

東亜国内航空381便事故は1979年7月21日に起こった事故です。

東亜国内航空381便は、羽田空港発南紀白浜空港着予定、午前8時38分ころ、羽田空港を離陸しました。

塚原利夫機長は、離陸後に車輪格納(ギアアップ)を行った後、異常の再点灯したことを確認。
左後輪が格納したまま降りて来ない状態になっていました。

塚原利夫機長は、羽田空港に引き返すことを決めて
午前11時32分ごろに片脚のまま着陸、その後胴体着陸に成功させました。
乗客乗員71名は全員無事でした。

乗客の中には、当時28歳の人気女優の由美かおるさんがいたことでも当時話題になりました。

日付   1979年7月21日
現場   東京国際空港(羽田空港)
機種   日本航空機製造YS-11
運用者  東亜国内航空(TDA)
機体記号 JA8656(あかし号)
乗客数  67
乗員数  4
生存者数 71 (全員)
負傷者  0

塚原利夫機長の東亜国内航空381便の事故経過

塚原利夫機長は25歳で機長となったエリート機長でした。
機長になって5年目の1979年7月20日、事故の前日に欠員が出たために急遽東亜国内空港381便に乗ることになりました。

1979年7月21日8時38分ごろ、塚原利夫機長の東亜国内航空381便は、南紀白浜空港にむけて羽田を離陸しました。

離陸後上空1000mで車輪格納(ギアアップ)を行った後に、左主脚の脚位置指示灯が再点灯しました。

念のため、レバー操作でギアダウンし出し入れのためのスイッチを何度も操作するも左後輪は格納したまま降りてこない。

それは、到着する南紀白浜空港は断崖絶壁で、羽田空港に比べてトラブルを回避するためには、危険な場所だと塚原利夫機長は知っていたからでした。

30歳の塚原利夫機長は、乗客を安心させるために丁寧に事態を説明したといいます。

羽田空港上空に着いてもすぐに着陸することなく
燃料を少なくすることとしました。

左側の車輪が下りていないことは分かっていました。
しかし、コックピットからは車輪が見えず、機内からの目視もできず、格納扉が開いているのかどうかを塚原利夫機長は
知りたかったのです。

すると、塚原利夫機長は、編隊飛行してもらうと提案したのです。
編隊飛行とは、飛行機同士が一定の距離を保って同じ方向に飛ぶことです。
旅客機同士の編隊飛行などありえないことだったのでした。

しかし、格納扉が開いていれば、飛行機の中から手動で車輪を降ろすことができるかもしれなかったのでした。

近くに飛んでいた飛行機のパイロットは自衛隊出身の機長でした。
塚原利夫機長に迷いはありませんでした。
編隊飛行により、飛行中の他機からの目視により、ギアの格納扉すら開いていないことが判明します。

最後の取り組みは、飛行機を急上昇、急降下を試みて車輪を出そうと試みることにしました。

急降下するということは、無重力になること。
乗客の説明なしに実行することはできませんでした。

そこで、塚原利夫機長は、心を一つにするために行動を起こします。

乗客を安心させるために、塚原利夫機長は、リラックスしているコックピットの様子を乗客を招いて操縦を見せたといいます。

現在でも、ハイジャック防止のために、コックピットを乗客に見せることは禁止されていますが、機長はそれを破ってでも乗客を安心させるために1組ずつ見学を許したのでした。

乗客の信頼、安心を得たと感じた塚原利夫機長は、
最後の取り組み、飛行機を急上昇、急降下を試みて車輪を出す試みを実行することを決断します。

その歳に、今でも伝説となっているアナウンスをするのでした。

「ジェットコースターを1~2分楽しんでくさい。迫力があり、本日は特別に無料サービスとなっております。存分にお楽しみください。」

しかし、これも失敗。車輪は下りることはありませんでした。

塚原利夫機長の東亜国内航空381便片輪着陸へ

いろいろなチャレンジをしたけれど、車輪が下りることができず、10時58分頃、羽田空港へ緊急着陸を決め、航空管制にも連絡します。

緊急着陸を宣言したことで羽田空港は、閉鎖され、すべての離着陸が禁止となりました。

片輪着陸か、胴体着陸か緊急着陸を覚悟する塚原利夫機長。
片輪着陸は、片足のため、バランスを崩すと回転してひっくり返ってしまうことがあるため危険。

胴体着陸の方が安定して着陸できるのだといいます。
しかし、格納庫には、危険物質が積まれていました。
そのため、胴体着陸で格納庫が傷ついてしまうと
危険物質の放射性が漏れてしまう危険があったのでした。

そのため、片輪着陸を選択した塚原利夫機長。

着陸にむけて、機体が損傷する恐れもあることから女性や子どもを通路側に移動させて

塚原利夫機長は
「当機は片脚のまま胴体着陸を行います」

とアナウンスし11時32分ごろに片脚のまま着陸し、

着陸そのものは、スムーズで片輪着陸に成功。
速度が遅くなってくると、脚のない左側に大きく傾いて胴体を滑走路に激しくこすって滑走路から逸脱、左翼が接地すると381便は右に150度回転して、滑走路から少し外れて停止します。

排水溝の溝に車輪をハマらせて飛行機がひっくり返らないように考えられた行動だったそうです。

午前11時40分のことで、火災も怒らず無事に着陸しました。
けが人も出ず、全員無事という30歳の最年少の機長のお手柄でした。

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東亜国内航空381便の事故原因は

東亜国内航空381便の事故の原因は、格納扉の上部機構部だった。

飛行機の組み立て時にこの扉が組み立てる順番を間違えたこともあり、車輪を吊り上げロックする「アップロックフック」という部品が金属疲労を起こし折れて割れてしまったことだったそうです。

塚原利夫機長のプロフィール

氏名   塚原利夫(つかはらとしお)
生年月日 1949年1月19日生まれ。
年齢   71歳
出身は  東京都

立教大学経済学部卒業
南カリフォルニア大学ヒューマンファクター課程修了
元 日本航空インターナショナル 機長
日本における最長経験機長(機長経験 36年、総飛行時間 21.780時間)

現在、有限会社日本ヒューマンファクター研究所
取締役副所長 兼 教育開発研究室長

その他の主な公職
・航空運航システム研究会理事
・日本人間工学会 会員
・航空自衛隊安全幹部課程講師
・海上自衛隊航空集団、護衛艦隊司令部講師

著書
「機長の危機管理」講談社 (共著)
「あなたは事故を起こさないか」航空運航システム研究会 (共著)
「環境災害事故の辞典」丸善 (共著)
「そのとき機長は 生死の決断」講談社 (共著)
「品質とヒューマンファクター」日科技連出版 (共著 2012年)

受賞歴
・航空功労者 国土交通大臣表彰(2004年)
・防衛省航空幕僚長 感謝状(2012年)

東亜国内航空381便が日本を変えた!あの重大事件の新事実2020

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▼緊迫の救出劇をドラマで再現

2020年12月20日(日)18時30分~22時48分の放送

(1)100年に一度の豪雨…消防隊ヘリ救出劇
(2)乗客乗員71人…片輪で決死の着陸
(3)大やけどの3歳児を救え!国境超えた命のリレー
(4)火事から少女を救った高校球児

番組内容

緊急事態発生!旅客機の車輪が出ない…若き機長が選んだのは片輪着陸!乗客乗員71人の命を救え!
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