北川から大森実と小西健壱記者が潜入取材した岡田更生館は毎日新聞報道の大スクープに

北川から大森実と小西健壱記者が潜入取材した岡田更生館は毎日新聞報道の大スクープに

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目次

北川は岡田更生館から逃げだし大森実へ

事件の始まりは1949年2月、北川いう脱走してきた男が毎日新聞大坂本社に逃げ込んできました。
北川は、栄養失調のようで汚い服装をしていたと言います。

そして、岡田更生館の施設の実態を語るのでした。

畳1畳に数名という過密な部屋。
食事はほとんど与えられずに餓〇する人も多くその数70人以上になったといいます。
収容者の約半数が結核にかかっていて、ほぼ全員が疥癬(ダニによる一番ひどい皮膚疾患)だったそうです。

逃げ込んできた北川冬一郎もまた同じような状態でした。
過去に警察に逃げ込んだ収容者がいましたが、県営の施設だったために、警察が事件として取り上げらえることはありませんでした。
そのために北川冬一郎は岡山県から毎日新聞の大阪本社まで来たのでした。

岡田更生館という施設は

岡田更生館は、1946年(昭和21年)12月から1950年(昭和25年)までに存在した岡山県吉備郡岡田村(現倉敷市真備町岡田)路上生活者収容施設。

1946年は、太平洋戦争後の混乱していた時期で、戦争で家や家族、職を失った人や外地からの引揚者や復員兵などが路上生活者として街の路上にあふれていました。

そのため治安が乱れ、住人が被害を遭うこともあり懸念されていました。
フラナガン神父の勧告によってGHQの軍政部はそうした問題を一掃するように命令を出して、彼らを救済するために強制的に収容する施設を全国に62か所造られました。

岡山市中心部では、500人以上が路上生活をしていて県全体では未成年だけでも約2000人を数えました。

岡山県は、県の厚生課の主導で3つの施設を作りました。
黒崎更生館(現倉敷市玉島)、西川寮(現岡山市北区)、そして岡田更生館の3つです。

岡田更生館は最も規模が大きく、ピーク時500人超の収容者がいたそうです。

岡田更生館は模範施設

岡山県は、福祉の先進県と呼ばれていました。
その岡山県で岡田更生館は、当時の新聞に「模範施設」としてとりあげらるほどの施設でした。

周辺はのどかな田園地帯であり、山裾にあった健民修練所を転用した施設は周囲を長い白壁の塀に囲まれていた。
代官屋敷を思わせる立派な門構え、その前の小川には橋が架かり、近くの民家には後にミステリー小説で名を馳せる作家の横溝正史が家族と共に疎開していました。

開設の翌年には、収容者の「更生演芸団」が共同募金運動に参加して県内巡業を行ったりもしていました。
警察等の行政の視察でも全く問題が認められず岡田更生館は「模範施設」だったといいます。

岡田更生館事件

岡田更生館は、施設に入れば、十分な食事が用意されて仕事があって働けば賃金ももらえて貯金も可能だという触れ込みで路上生活者を強制的に入るようにさせました。

しかし、実情は違っていました。

一度は逃走した収容者が九州の大牟田の警察に訴え出たことがありました。
福岡県警からの依頼で岡山県警が調査したが、収容者が訴えた事実はないと結論付けられてしまっていました。

そして、1949年、北川が毎日新聞本社を訪れて岡田更生館の現状を訴えたのでした。

その時に聞いた大森実記者はすぐにカメラマンの向井岡山県の岡田更生館に向かって取材を始めました。

岡田更生館の近所の人に取材をしたのでした。
すると近所の人たちから驚くべき証言がいろいろ出てきました。

大森実と小西健壱記者は毎日新聞に潜入取材を進言

近所の人たちに取材をした大森実記者は、潜入取材をするとことを毎日新聞社に進言します。

命がけの潜入取材です。

模範施設と言われた岡田更生館は

衛生状態も劣悪。
畳以上あたり数名という過密な部屋
半数が結核にかかっている
ほぼ全員が重度の疥癬
食事もほとんどない。

施設から逃げ出そうとすると、すぐに捕まえられて
職員から〇行をうけていました。

人手不足を補うために収容者の中から「真面目な人」を選んで指導監督に当たらせ、〇力を容認しました。

栄養失調や、〇行などで亡くなってしまった収容者においては
骨箱に納められることもなく焼却炉の広場にそのまま埋められていることもわかりました。

さらに館長の運営費の横領も発覚しました。
収容者の飲食費や衛生費などとして県から交付された金のうち90万円超は、収容者の貯金を使った後の埋め合わせ、来館者の接待費、妻の入院費などに流用していたこともわかりました。

虚偽の領収書を作成して収容者の飲食物や日用品の購入に使ったように装う工作もしていました。

元々不足した給食費を館長が横領していたため、さらに減ってしまったために餓〇する収容者がでていまったといえるようです。

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大森実記者と小西健壱記者は毎日新聞に発表

岡田更生館の実態この証拠を掴んで大森実記者と小西健壱記者は1949年2月18日付けの毎日新聞朝刊社会面に掲載します。

「収容者に相次ぐ死」、「疑惑の岡田更生館にメス」と大きな見出しによって暴露されました。

毎日新聞の記事になったことで大きな社会問題となり
警察も動きました。

刑事裁判の結果は

1950年2月28日岡山地裁で裁判が開かれました。

館長は、業務上横領と私文書偽造で懲役1年執行猶予3年
岡山県会計課主事の男性が同罪で懲役1年執行猶予2年
岡田更生館指導員の男性が同罪で執行猶予3年
同僚が同罪で執行猶予2年

小西健壱記者の潜入取材後

小西健壱記者は、潜入取材後、壮絶な疥癬にかかってしまったそうです。
毎日新聞社はこれを業務上公傷と見なし、手当を存分に出して山中温泉に行かせたそうです。

しかし翌年にある事件の犯人へのやり取りでデスクをもめて大喧嘩の末に社会部からラジオ原稿の書き換え係に左遷されてしまったそうです。

岡田更生館事件がアンビリバボーで

2020年9月3日(木)19時57分~21時00分放送のアンビリバボーは

奇跡体験!アンビリバボー【真相を暴け!命がけ潜入捜査!】
日本一の“優良施設”はウソ?入所したら虐待され生きて帰れない!?警察もグルの手強い相手・岡田更生館。その裏の顔を暴くため新聞記者が決死の潜入捜査!

番組予告では

番組内容
1949年、毎日新聞大阪本社に北川と名乗る男が駆け込んできて、自らの身に何があったかを話し始めた。北川は偶然知り合った、県の職員から施設「岡田更生館」への入所を勧められる。
当時は、戦後の混乱期。戦争によって居場所を失った路上生活者が日本各地にいた。彼らを収容するために作られた施設が「岡田更生館」。施設では十分な食事が用意され、仕事もある。働けば賃金が与えられ、貯金も可能だと。 だが、現実は大きく異なっていた。
北川によれば仕事もなく食事も十分に与えられず、北川がいた約1カ月の間だけでも50~60人が栄養失調で亡くなり、日常的にリンチや殺人も行われていたのだという。
北川は何とか脱走に成功し、岡山から大阪にある毎日新聞本社へ逃げてきたのだ。 この話を聞いた大森記者はにわかに信じられなかった。本当ならば、とうに大問題になっているはず。
しかし本当なら…?大森は岡山県庁で話を聞くと、悪い評判は皆無。しかし、過去の新聞記事を調べてみると、脱走者が施設内での暴力を訴えたという、小さな記事を見つけた。しかしその後の警察の調査で、暴力は否定された。
果たして「岡田更生館」は優良施設なのか?それともリンチや暴力など繰り返される、恐るべき施設なのか?実態を探るため大森は小西健壱記者と2人で自ら路上生活者に変装、施設に潜入を試みる。無事脱出できなければ殺される可能性もある中、命懸けの潜入取材が始まる!

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