ユリアナケプケはアマゾンに不時着した旅客機から奇跡の生還した17歳の少女!「奇跡の詩」に映画化された

ユリアナケプケはアマゾンに不時着した旅客機から奇跡の生還した17歳の少女!「奇跡の詩」に映画化された

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目次

ユリアナ・ケプケの乗った旅客機は

1971年12月24日
便名  LANSA ペルー航空 (en:Lineas Aereas Nacionales S.A.) 508便
機種 ロッキード L-188 エレクトラ
乗員乗客 92人

ペルーのリマからイキトスへ向かう途中、アマゾン上空で激しい乱気流と落雷に遭遇、右翼を大きく損傷しその後空中分解、山岳地帯の森林へ墜落し、ユリアナ・ケプケさんはたった一人の生存者

ユリアナケプケ 17歳は父とクリスマスを過ごすため、母と旅客機に乗っていました。

この旅客機 「LANSA」は過去2回事故を起こしていたことがあったそうです。
それを知りつつも家族でクリスマスを過ごしたいとペルー航空 に搭乗しました。

ペリー航空LANSAの墜落は

ペリー航空LANSAは離陸後、約25分ほどは正常に飛行していました。
その後、厚い雲の中に突入、飛行機は揺れ始めます。
上空6400mで乱気流と落雷により、右翼を大きく損傷しその後空中分解します。

燃料タンクが雷に打たれて右翼が壊れた事が後の調査で分かっています。
そしてペリー航空LANSAはは厳しい山岳地帯の森林へと墜落してしまいます。

ユリアナケプケさんは、飛行機が空中分解した時に宙に放り出されてしまいます。

ユリアナさんは意識を失いますが、
3㎞下のジャングルに落下するも奇跡的に軽傷で助かるのです。

目が覚めたのは、翌日の朝9時だったそうです。
時計が壊れていなかったため、時間を確認することができました。
軽傷とはいえ、鎖骨を痛め、右目は大きく腫れていました。
さらに手足には大きな切り傷もありました。

「私だけ助かったのには、何か意味があるのだろうか?」

ユリアナ以外誰一人助からなかったのは周りの様子を見ればわかりました。
スピリチュアルには興味がなかったユリアナでしたが、そう考えるようになったと後のインタビューで答えています。

助かったことを喜んだのも束の間、救助隊がこちらに向かっていなかったのです。

墜落現場を特定することができず、レスキュー隊や調査機は
ユリアナが一人ジャングルで生きていることさえ知らずにいたのでした。
ここから、ユリアナの戦いが始まります。

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ユリアナケプケの両親はジャングルの動物学者だった

アマゾンのジャングルに一人取り残されたユリアナでした。
しかし、彼女の両親はジャングルに生息する野生動物を研究している有名な動物学者でした。

そのため、ユリアナは小さい頃から「ジャングルで生き残る方法」を教わっていました。

父親から教わった「ジャングルで生き残る方法」のはじめは

「小川を見つけたら、川の流れにそって歩きなさい。
そうすれば大きな川にたどり着ける。
そして手助けになるものが何か見つかる」

目が覚めた翌日から、ユリアナは小川を探し、流れに沿って歩き出しました。

時々、クロコダイルがユリアナに向かった水中を歩いてきましたが全く怖くなかった、
それは、ユリアナはクロコダイルは人間を襲わないと知っていたからです。

ユリアナが持っていた食料は少しのキャンディだけでした。
その状態で10日間歩くことになります。

腕の傷は、膿んできて、うじ虫も発生していました。
「腕を失うのでは?」と恐怖とも戦わなくてはなりませんでした。
救助後、ユリアナの腕には50匹以上のうじ虫がいた事がわかっています。
ユリアナが無事助かったこと、本当に奇跡です。
彼女が生きて帰ることに本当に意味があったのでしょう。

小川を歩き続けている中、ユリアナは飛行機の残骸や
3名の女性の犠牲者とも遭遇します。

母と一緒に搭乗していたユリアナは母でないかと確かめようとします。
しかし、とてもひどい状態で、ユリアナは母の足で確認することにするのです。
その方たちはネイルをしていたため、母でない事をユリアナはしります。
17歳の少女にはとてもつらいことだったしょう。

未開の密林を200キロメートル以上も渡り。歩き始めて10日後、
ユリアナはとうとうカヌーと小さな小屋を見つけます。

何時間か昏睡していたところをハンターによってユリアナは発見されます。
彼らが隣町まで運んでくれ、ユリアナは助かるのでした。

機体の残骸は事故後14日を経て発見されたが、墜落直後には10人以上が生存していたみられた。
救助活動が早く行われていれば、と悔やまれました。
ペルーからは救助隊が派遣されていたものの、現場の悲惨さから生存者なしと判断されていました。

ユリアナのその後と映画「奇跡の詩」

事故が起こったのは、1971年。
ユリアナは芳紀17歳にして単身、未開の密林を200キロメートル以上も渡って奇跡的な生還を遂げました。

ろくな食料も得られず、ワニやヘビに襲われ、川ではカンジェロ(肉食の魚)に足の肉を食いちぎられ、ヒルに血を吸われ、傷口は数十匹もの蛆に食い荒らされた。

その後、1974年に映画「奇跡の詩」(Miracles Still Happen) と
なり、この事故の様子が描かれます。

1987年 開隆堂の中学校の英語の教科書にも取り上げられた。

ユリアナは回復後、キール大学で両親のように生物学を学び哺乳類を専門に研究します。

その後は、ミュンヘンのバイエルン州立動物博物館で司書として働いているそうです。

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