オスカーピストリウス 両足義足の金メダリストの英雄はなぜ恋人を。犯罪者になったのか?

オスカーピストリウス 両足義足の金メダリストの英雄はなぜ恋人を。犯罪者になったのか?

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目次

世界中が驚いた事件

事件が起こったのは2013年南アフリカ
プレトリアのゲーテッドコミュニティの自宅で
恋人のリーバ・スティンカンプを銃で撃ったとして逮捕。

リーバスティンカンプさんは亡くなった。
2013年2月14日に国内メディアに報道された。
しかし、はじめ報道では、侵入者と誤認して撃ったとされる

しかしその後、ピストリウスは、過去にDVで通報された経歴があった。
南アフリカの検察は「計画的殺人」であると主張し、逮捕となった。

南アフリカの英雄がなぜか 当時の報道はとても過熱した

南アフリカの英雄とも言えるピストリウスの〇人容疑に、
南アフリカのマスメディアの報道は過熱気味だった。

この事件の担当刑事の1人が、過去に7件の〇人未遂容疑がかけられている不祥事が発覚、
担当刑事が交代となるなど、捜査は混乱していた

非常事態発生!ワールド犯罪ミステリーで放送

2018年1月10日 20時00分~22時54分に放送

予告では

世界的ヒーローの両足義足の金メダリストが恋人射〇!!
英雄の恐るべき正体とは!?

新しい事実が出るのか?その正体とは?

裁判は4年かかった

2013年2月22日 南アフリカ検察は保釈を認めた。
保釈金は100万ランドだった、
しかも、国外への競技参加などを許可するなど、条件を緩和される。
2013年10月29日 ピストリウスは2件の銃規制法の違反容疑で追訴。公共の場で2回発砲した疑い

初公判

2014年3月3日、プレトリアの高等裁判所で初公判。
ピストリウスは「恋人を侵入者と間違えた」と述べ、無罪を主張

公判は3月20日までの予定であったが、5月16日までに延長された。ピストリウスは裁判の費用を捻出するため、自宅を売却した

2014年9月11日

プレトリアの高等裁判所は、ピストリウスに対して〇人では無罪
過失致死では有罪の判決

2014年10月21日

裁判所はピストリウスに禁錮5年の判決

検察は控訴へ

2014年12月10日、裁判所は可否を判断する公判を開き、控訴を認めると決めた。
ただし、量刑に対する控訴は認めなかった

仮釈放へ

治安の悪い南アフリカでは、刑務所は常に定員オーバーと資金不足に悩まされており、殺人であっても早期に仮釈放させ、「強制監視」という方法で対処することが多いという。

仮釈放を受けるには刑期の6分の1を終える必要があるため
2015年8月19日、ピストリウスに仮釈放の予定であったが、延期になった。

同年10月15日、南アフリカの仮釈放委員会はピストリウスを10月20日に仮釈放し、自宅軟禁下に置くと決定。

刑確定へ

2015年12月3日、最高裁判所(憲法裁判所)は検察の上訴審において高裁判決を破棄、〇人罪で有罪判決を出した
ピストリウス側は殺人罪の適用は不適当として上訴を請求したが、
2016年3月4日最高裁判所はこれを退け、有罪が確定した
最高裁判所は量刑について禁固6年の判決を言い渡す。

殺人罪は最低15年の量刑が定められている
判決は被害者を侵入者と勘違いしたとする被告の主張など酌量すべき事情を複数挙げ、大幅に量刑が軽減された。

2016年8月26日 検察は量刑が少なすぎるとして上訴するが、ヨハネスブルク高等裁判所は上訴を棄却する決定。

検察はさらに量刑が少なすぎるとして最高裁判所に上訴

裁判はやっと終結

最高裁判所は2017年11月24日、量刑を禁錮13年5月に引き上げる判決を言い渡した

収監へ

有罪が確定したため、プレトリアのクゴシ・マンプルII刑務所に収監
2016年11月にはプレトリアのアッテリッジヴィル刑務所へと移監

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オスカー・ピストリウスのプロフィールは

生年月日  1986年11月22日
年齢    31歳
出身    南アフリカ共和国ヨハネスブルグ近郊のサントン

先天性の身体障害により生後11ヶ月時、両足の膝から下を切断

高校時代はラグビー、水球、テニス、レスリングなどスポーツ万能だった

ラグビーで膝を負傷しリハビリ中の2004年1月、陸上競技を勧められる
2008年時点、プレトリア大学で、経営学、スポーツ科学を履修

アフリカ共和国のパラリンピック・オリンピック陸上選手
両足義足のスプリンターで、アイスランドの義肢メーカーオズール(Ossur) が制作

まるで刃(Blade)のように薄い炭素繊維製の競技用義肢を使用しているため、”ブレードランナー”(Blade Runner)の異名を持つ

2004年9月、アテネパラリンピック100m銅メダル(11秒16)
200m金メダル(21秒97)
2008年9月、北京パラリンピックにて100m、200m、400mに出場、金メダル三冠を達成した

自己ベスト

100m:10秒91 (2007年4月4日)
200m:21秒30 (2012年9月1日、ロンドンパラリンピック予選)
400m:45秒07 (2011年7月19日)

健常者並みの記録

2011年、韓国で行われた世界陸上競技選手権大会に、健常者と共に出場する

8月29日 400メートル競走に出場し、準決勝で敗退
9月2日  4×400メートルリレー決勝が行われ、南アフリカは銀メダルを獲得(予選には走者として出場)

国際陸上競技連盟から、他の国の選手と接触することがない第1走者なら出場が認められて、銀メダルが贈られた

パラリンピックからオリンピックへの挑戦

北京オリンピックに400mで出場を目指していたが
カーボン製の義足による推進力が競技規定に抵触するとして
国際陸上競技連盟(IAAF)は却下した。

2008年5月16日、スポーツ仲裁裁判所(CAS)はIAAFの判断を覆し、ピストリウスが健常者のレースに出場することを認める裁定を下した。

参加標準記録(A標準45秒55、B標準45秒95)を突破すればオリンピックに出場できた。

突破できなくても、1600mリレーのメンバーに入れば出場は可能だった。

身体障害者が健常者のレースに出られるとオスカー・ピストリウス期待の星でもあった。

ロンドンオリンピックで出場を果たす

南アフリカ・オリンピック委員会は、
陸上男子400mおよび男子4x400mリレーのメンバーにピストリウスを選出

両脚が義足の陸上競技選手では初めて、オリンピックへの出場を果たした

ロンドンパラリンピックも出場、オリンピック、パラリンピック両方出場した唯一の選手と言える

だからこそ南アフリカの英雄であった。

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