123便墜落事故にさんまは乗る予定だった?!「いまる」に込められた思いは?!

123便墜落事故にさんまは乗る予定だった?!「いまる」に込められた思いは?!
『日航ジャンボ機墜落事故』から33年CAの夫や家族からの証言!

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目次

日本航空123便墜落事故とは

単独機では世界最悪の惨事となった航空機事故
『日航ジャンボ機墜落事故』とも言われている。

1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分
東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便
ボーイング747SR-100(ジャンボジェット、機体記号JA8119、製造番号20783[1])が
群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落
乗員乗客合わせて524名中、520名が亡くなった。

夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。

明石家さんまは日本航空123便をよく利用していた

当時さんまさんは大阪でMBSラジオ『ヤングタウン』レギュラー出演していた。
その前の仕事が「オレたちひょうきん族」の収録で
毎週、ひょうきん族の収録終わりで日本航空123便に乗り大阪入りすることが多かったという。
事故の起こった1985年8月12日も123便の予約を取っていた。

しかし、この日は「オレたちひょうきん族」の収録が早く終わり、123便をキャンセルし、一便早いひとつ前のANA35便で大阪に向かった

その日の「ヤングタウン」の生放送ではほぼ事故の報道に終始。
登場したさんまさんは
「遺族のお気持ちを考えると、ちょっとお笑いトークはできませんね。しかも、日航123便は、この「ヤングタウン」に出演するための移動手段として、私もよく利用していたんですよ。今日も123便を利用する予定でした。身体がずっと震えています。もしかしたら、私も死ぬところだったかも しれない」
と語り、その後はずっと曲が流されたとか

その後、さんまさんは東京、大阪間の移動は新幹線になったとか。飛行機は苦手になったようだ。
当たり前と言えば当たり前だ。

いまるの語源

明石家さんまさんの一人娘「いまる」さん

いまるさんが生まれた時からさんまさんは
「生きているだけでまるもうけ」から付けた

と公言していた。
「かっこいいと思ったから」とだけ言っていた。

この事故が関係しているのではないかとも言われている。

もしも、「オレたちひょうきん族」の収録が早く終わらなかったら。
前の便に空きがなかったら?
予定通り、予約していた123便に乗ったことになる。
それともう一つ
さんまさんが123便をキャンセルしたことにより、乗った人がいるということだ。
それに対してもさんまさんの心は痛いだろう。

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さんまの座有名「生きてるだけで丸儲け」の訳はもうひとつあった

さんまさんは「自分はマザコン」だと公言している。
さんまさんの実母は幼い頃に亡くなっている。

その後父は再婚した。
その再婚相手の義理の母と父の間に子供ででき、弟がいたのだ。

少し年が離れていることもあってとても可愛がっていた。
弟もさんまさんととても慕っていたという。

その弟さんが18歳にして火事で命を落としてした。
さんまさんはすでに芸人として大阪で活躍していたという。

当時の彼の落ち込みはとても激しかったと言われている
その落ち込みを側で見守っていたのは島田紳助さんだった。

さんまさんは高校を卒業すると笑福亭松之助の内弟子として
島田紳助ととも笑福亭松之助の家に住み込んで修行している。
二人が連絡を取り合わなくても心が繋がっているというのは
この苦しい時代を一緒に過ごしたことが大きいのだろう。

さんまさんの座右の銘「生きてるだけで丸儲け」は
小さい頃からの座右の銘なのだろう。

お母さんや弟さんと別れて
123便に乗らないように二人が守ってくれたのかもしれない。

神様も
「君はまだこの世に必要なんだよ」
「生かしてくれた」

と思わせる人間だったのだろう。

「証言者が激白!あの事件の知らなかったコトSP」でCAを取り上げる

2017年11月8日放送テレビ東京の番組

番組の予告欄では

1985年、単独機では世界最悪の惨事となった航空機事故。その機内には墜落直前まで乗客のために奮闘し続けたCAたちがいた。これまでどの番組も取り上げてこなかった客室内での彼女たちの素顔と知られざる真実に迫ります。同僚・夫が初証言…機内では一体何が起きていたのか?そして地上に残された家族たちの想いとは?節目となる33回忌を迎え、空の安全を願い、お伝えします。

となっている。

当時からこの時CAさんは、最後まで冷静に乗客のために働いたと
いう話は出ていたが
そこにスポットを当てて作った番組はなかったかもしれない。

生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動していたという。その後、乗客は墜落時の衝撃に備え、いわゆる「不時着時の姿勢(前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる)」をとって、衝撃に備えた
Wikipediaより

残された家族は、辛かったという話もあった。
乗客と乗務員では被害者と加害者との差があったとか。

同じ飛行機で事故にあって家族を亡くしている遺族なはずなのに。
それゆえ、家族の口も重かったのかもしれない。

事故の原因は

ボーイング社の修理ミスによる後部圧力隔壁の破損、および、垂直尾翼と補助動力装置の破損、油圧操縦システムの全喪失と言われている

垂直尾翼が無くなってしまったことで
機体は水平を保つことが難しくなっていた。

機長の高濱 雅己さんは右のエンジンと左にエンジンを交互に燃やしてなんとか飛行を続けたと言われている。

羽田を離陸した直後の異変だった、この機長の頑張りがなければ
市街地での墜落になってしまったのではと
専門家の指摘もあった。

加害者にされてしまった乗務員は最後までプライドを持って素晴らしい仕事をしていたことがここに来てスポットを浴びる

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