白田弘行 あさま山荘事件の鉄球作戦は失敗だった? 浅間山荘の場所は現在も直撃!シンソウ坂上での告白は?

白田弘行 あさま山荘事件の鉄球作戦は失敗だった?
浅間山荘の場所は現在も直撃!シンソウ坂上での告白は?

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目次

白田弘行さんはあさま山荘事件の鉄球作戦に参加

白田弘行さんは現在80歳。
46年前に起こった「あさま山荘事件」の解決のため「鉄球作戦」に参加した民間人だ。

白田弘行さんは、クレーンやブルドーザーなどの重機を運搬する、創業57年の会社「白田組」の人。

事件当時、長野県警から一本の電話があった
当初はクレーン車を貸し出すだけとの話だったという。

しかし、クレーン車を到着させると、最終的には
城田さんがクレーン車を操縦させることになってしまった。

直撃!シンソウ坂上【あさま山荘事件・鉄球作戦の舞台裏…鉄球作業員が初告白!】を放送

2018年6月7日放送 直撃!シンソウ坂上【あさま山荘事件・鉄球作戦の舞台裏…鉄球作業員が初告白!では

突入劇を再現する。白田弘行さんはなぜ、クレーン車を操縦することになったのか
そして、白田弘行さんはなぜ「鉄球作戦は失敗だった」と
思っているのか、白田弘行さんの話を聞いて坂上忍さんが
思わず涙ぐんでしまったわけは?

実物の鉄球も46年ぶりに公開される。

番組内容は
今回は今から46年前、日本の昭和史に残る大事件「あさま山荘事件」を取り上げ、これまで語られることがなかったシンソウに迫る。 あさま山荘事件は、1972年、長野県軽井沢の浅間山荘に連合赤軍と名乗るメンバー5人が女性を人質に立てこもった事件。当時、事件の様子はテレビ中継もされ、総世帯視聴率およそ90%、日本中が固唾を飲んで見守った。警察は山荘を包囲し10日間の攻防の末、山荘の壁を“鉄球”で破壊するという前代未聞の作戦で人質を無事救出、犯人グループ5人全員の逮捕に成功した。 しかし今回、坂上忍がこの作戦で鉄球クレーンを操縦した民間人の白田弘行氏に直撃取材をすると、事件後一度も口にしなかったという意外な言葉が飛び出した。 「あの作戦は失敗だった…」 はたして、その言葉の真意とは? 独自取材を元にしたドキュメンタリードラマも交え、白田氏が46年間秘めてきた思いに迫っていく。さらに番組では、銃器で武装し要塞と化した「浅間山荘」の知られざる内部の様子も描く。警察突入の瞬間、山荘内部では一体何が起きていたのか?警察と犯人グループはどんな行動をとっていたのか?最後まで発砲せず一方的な銃撃に耐え、人質救出に成功した隊員の決死の突入劇を再現する

あさま山荘事件の概要

場所  長野県北佐久郡軽井沢町
座標  北緯36度17分20.93秒
東経138度37分19.38秒座標
日付  1972年(昭和47年)2月19日 – 2月28日 (日本標準時)
概要  人質 立てこもり発砲事件
武器  散弾銃、ライフル、拳銃、パイプ爆弾
死亡者 3名(警察官2名、民間人1名)
負傷者 27名(警察官26名、報道関係者1名)
犯人  連合赤軍
(坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久)
対処  人質を救出し犯人全員を逮捕

日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人が、浅間山荘の管理人の妻(当時31歳)を人質に立てこもった
山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航

死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。

10日目の2月28日に部隊が強行突入、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。

人質事件としては日本最長記録、(人質は219時間監禁)

連日、生放送での現場の状況を放送した。
けが人の搬出、鉄球での壁の打ちこわしなど衝撃的な映像が多く、
国民はテレビにくぎ付けになった。
45年以上経った今でも報道特別番組の視聴率日本記録になっている。
突入した2月28日のその視聴率はなんと、視聴率89.7%を記録している。

あさま山荘事件の発端

連合赤軍は、銀行に対する連続強盗事件や真岡銃砲店襲撃事件(猟銃店を襲って銃と弾薬を手に入れる)など、、凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていた

連合赤軍メンバーは29名いて、群馬県の榛名山や迦葉山のベースの山岳地帯に潜んでいた

警察の山狩りが開始、徹底的なローラー作戦により、長野県に逃げ込むことに。

指名手配された連合赤軍メンバーは29名全員ではなかったが、警察の職務質問や食料買い出しの時の店員の通報などにより、メンバーは逮捕されてき

最終的にあさま山荘の立てこもった5人になる。
(坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久)

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あさま山荘事件の経過

1972年2月16日、拠点にしてた群馬県を逃げ出し長野県へ

2月19日の正午ごろ、軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入。
捜索中の長野県警察機動隊一個分隊がパトカーに乗って近づいてきたためにパトカーに発砲する。

15時20分ごろ、メンバーは銃を乱射しながら包囲を突破する。
自動車がある家を探す中で浅間山荘を発見する。

管理人や宿泊客は外出して管理人の妻のみがいた。
そこで坂口は
「騒いだり逃げたりしなければ危害を加えない」

そして、その後、人質に対して
「人質ではなく、助けを求めた山荘の管理人」として
自分たちが逃げるための取引に使おうという考えもあったが断念。
人質の縛っていた縄を坂口が独断で解いたという。
それに対して他のメンバーは何も言わなかった。

食料品は山荘にお客さんがいたこともあり、1か月間は持つと判断したという。

警察も管理人から20日間も持つと言われていたことから
兵糧攻めは無理と考え、説得策にすることに

犯人の母親や、管理人からの説得は続いた。

悲劇的なことが起こったのは、事件から6日目2月22日だった。

午前中は吉野の母の説得中に銃声。
吉野の母が「お母さんを撃てますか」という問いかけに発砲する。吉野の母が乗る装甲車に当たった。しかし、吉野は涙を流していたという。

お昼頃、警察の包囲をすり抜け
新潟市内でスナックを経営する民間人の男が山荘の玄関先に現れ、「文化人」を名乗り人質の身代わりとなることを主張する。

警察が「山荘の学生諸君。この人は警察官ではない。民間人だから撃たないように」と呼びかける。

坂口は私服警官ではないかと疑っていた。
吉野が威嚇射撃をするも後退せず。遂に拳銃で狙撃。

男は一旦倒れたが、すぐ立ち上がり機動隊員に保護される。
男はその後容体が悪化し3月1日に死亡した。1人目の犠牲者に。

この日に電気を止める。
その後も電気は止まっていたが、水道とガスがそのままだった。

2月25日、深夜から警察による擬音作戦で不眠になる。

あさま山荘事件の終息

2月28日、10時に機動隊が突入を開始
銃撃戦が始まる

山荘の玄関脇の階段の壁に穴が空け「鉄球作戦」空いた穴に激しい放水を行うこれに白井組のクレーン車が使われたわけだ。

11時27分ごろ、その放水の指揮をしてた警視庁特科車輌隊中隊長の警視が撃たれ、二人目の犠牲者に。

11時47分、第2機動隊伝令の巡査が坂東の狙撃により片目を失明
11時54分ご、第2機動隊隊長の警視が坂東の狙撃により、3人目の犠牲者に

11時56分、階の厨房に侵入し指揮していた第2機動隊4中隊長の警部が吉野と加藤の狙撃により頭に被弾

12時30分過ぎ警察の作戦行動が休止

これらを受けて、人質は被害者を増やさないためにも自分を楯にして外に出ることを訴えた

14時40分ごろ、厨房にいた機動隊を発見。
第2機動隊4中隊の分隊長が右腕を砕かれる重傷を負った他、他4名が全治数日の聴覚障害を負った

15時半ごろ、警察による放水が再開
15時58分ごろ、第2機動隊第2小隊巡査2名が被弾

17時ごろ、機動隊がベッドルームに接近。バリケードを少しずつ排除
17時20分ごろ、第9機動隊巡査が坂口と坂東の銃撃により被弾
17時55分ごろ、第9機動隊巡査部長が坂口、坂東、吉野の乱射により顔面に被弾

ベッドルームの壁にハンマーで穴が開けられ、28人の機動隊員が突入

18時10分ごろ、犯人一斉検挙のため先頭を切って突入した第9機動隊巡査が坂東の至近距離からの銃撃により右眼に被弾。
後に右目失明。

その直後の機動隊突入により18時10分犯人全員逮捕、人質無事解放
18時過ぎ、坂東の実家では、坂東逮捕が報じられると、父親が席を立ちそのまま帰らぬ人になったという。

銃撃を浴びながらけが人、被害者がたくさん出たにも関わらず、
警察は発砲しなかった。

とにかく衝撃的な事件だったことに間違いない

あさま山荘事件、犯人のその後

坂口弘
生年  1946年11月12日
年齢  71歳
生地  千葉県
思想  毛沢東思想
死刑確定しており、現在は東京拘置所に投獄されている。

坂東 國男(ばんどう くにお、)
生年    1947年1月10日
年齢    71歳
生地    滋賀県大津市
思想    マルクス主義
1975年に日本赤軍によるクアラルンプール事件で超法規的措置により釈放・国外脱出している。

吉野雅邦(よしの まさくに)
生年  1948年3月27日
年齢  70歳
生地  東京都杉並区
無期懲役Dに刑は確定し、千葉刑務所に投獄

加藤倫教(かとう みちのり)
事件当時19歳 少年A
生誕   1952年
年齢   66.7歳
生地   愛知県刈谷市
1983年2月に懲役13年の刑が確定、三重刑務所で服役
1987年1月 仮釈放
現在は実家の農業を継ぐ

野生動物・自然環境保護の団体に所属して活動
なお現在は自由民主党を支持し、自民党に入党
転向の理由については補助金の陳情や業界団体の為に転向した
とテレビ番組で語っている

加藤 元久(かとう もとひさ)
加藤倫教の実弟当時16歳 少年B
生年   1956年
年齢   61.2歳
生地   愛知県刈谷市
少年法で実名は伏せられ、保護処分扱い
現在については明らかになっていない。

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