小泉信三と小泉純一郎はどんな関係?天皇陛下の先生 慶應義塾の塾長「日本国の象徴」の在り方は

小泉信三と小泉純一郎はどんな関係?天皇陛下の先生
慶應義塾の塾長「日本国の象徴」の在り方は

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目次

小泉信三と小泉純一郎の関係は

小泉信三さんは、現在の天皇陛下の先生をしていた方です。
慶應義塾の塾長もされていた方で天皇陛下の先生になった経歴の持ち主。

小泉信三さんは小泉純一郎さんと同じ小泉さんということで
血縁関係があるのかと想像ができてしまいます。

しかし、調べたところ、関係はない、ただ同じ苗字の人だった
つまり、赤の他人だったようです。

小泉信三が歴史秘話ヒストリアに登場

歴史秘話ヒストリアは、歴史好きの人に人気のNHKの番組です。
学校の歴史の授業では教わらないことを知ることのできて
「そうだったのかぁ」と違う視点からみることができる
とても面白い内容になっています。

その歴史秘話ヒストリア
2018年12月12日(水)22時25分~23時10分の放送で

「“天皇の先生”になった男 小泉信三 「象徴」とは何か」
が放送になります。

歴史秘話ヒストリアで取り上げられる「小泉信三」という人物は
どんな人なのか興味が湧きます。

番組予告では

天皇陛下の若き日、先生役を務めた小泉信三。戦後の新しい皇室のあり方に大きな影響を与え、ご成婚にも大きな役割を果たした人物の、波乱に富んだ生涯とその信念を描く。

番組内容
来年4月に退位が決まっている天皇陛下の若き日、先生役を担った男がいた。
慶應義塾の塾長だった小泉信三だ。
終戦後、皇太子殿下の教育を預かる実質的な責任者となった小泉は、世紀のイベントである「ご成婚」にも大きな役割を果たした。
戦後、「日本国の象徴」と定められた新たな天皇像とは、どのようなものかを模索し、新しい皇室のあり方に大きな影響を与えた小泉信三。
波乱に満ちた生涯と若き日の陛下と歩んだ日々を描く。

昭和20年に第2次世界大戦が終わり、日本は敗北。
天皇陛下の存在は、大きく変わります。

「日本の象徴」となるべく、国民のために平成の天皇は
尽力されてきました。

その平成天皇の幼少期の先生を勤めた「小泉信三」さんの
半生を調べてみました。

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小泉信三のプロフィール

旧紀州藩士・小泉信吉と千賀の第三子として誕生
父小泉信吉は、福澤諭吉の直接の門下生だった
父は幼少期に亡くなる。
晩年の福沢諭吉に目をかけてもらうことになる。
家族は妻と長男、長女、次女
長女は秋山加代さん、次女の妙さんは婿養子で小泉を名乗っている。
お二人とも随筆家、

生誕    1888年5月4日
死没    1966年5月11日(78歳没)
出身    東京府東京市芝区
学歴    横浜本町の横浜小学校
東京府芝区御田小学校に転校し卒業
1910年   慶應義塾大学部政治科卒業
1912年9月 ヨーロッパに留学し、イギリス、フランス、ドイツの各大学で学ぶ(大正元年)

1913年  ウィンブルドンを観戦(帰国後、硬式テニスを推薦)
1916年  帰国(大正5年)慶應義塾大学教授になる。

自由主義を論調(共産主義・マルクス経済学は批判)

1933年  慶應義塾大学塾長に就任(昭和8年)
1934年  慶應義塾大学より経済学博士(昭和9年)
1943年  帝国学士院会員に選出(昭和18年)

第二次世界大戦で一人息子・小泉信吉も出征して戦死。
(とても嘆いた。)

1945年  東京大空襲で、焼夷弾の接触により顔面に火傷を負った1947年  塾長を正式に辞任(昭和22年)

1949年  東宮御教育常時参与に就任
皇太子明仁親王(現在の天皇)の教育掛になる。

『ジョージ5世伝』や『帝室論』などを講義し、新時代の帝王学を説いた。

ここで、平成の天皇は、「象徴」としての天皇の土台ができたと
言われています。

1954年 コロンビア大学より人文学名誉博士号を贈られる
(昭和29年)
1959年11月、文化勲章を受章(昭和34年)

1966年5月11日 心筋梗塞のため78歳で死去。贈正三位(昭和41年)

皇太子の教育

象徴としての天皇になるために、お二人は模索します。

皇室がうまくいかないということは日本全体の不幸でもあるんだ。
そして、この厳しい言葉を天皇に言えるのは自分
小泉信三の使命だと考えていました。

そして次の様な言葉を皇太子(現在の平成天皇)に言葉を述べます。

「新憲法によって天皇は政事に干与しないことになっておりますが、
しかも何らの発言をなさらずとも
君主の人格 その識見はおのずから国の政治に
よくも悪くも影響するものであり
殿下のご勉強と修養とは
日本の国運を左右するものとご承知ありたし」

天皇としてだけでなく、ひとりの人間て
国民から尊敬を集められる人でなければ
国民統合なんてそもそもできない

そうしないと天皇制は生き残れない。と小泉信三は考えていました。

教養を持ってなくてならない。
そして人間としてもちゃんとしていなければならない。
皇太子さまはご自身の責任の重さを感じていたと言います。

「世の君主たり皇子たるものの第一の義務が人の疾苦を思うこととである」と
小泉信三さんは進言したといいます。

「疾苦(しっく)」とは、人の悩み、苦しむということ。

美智子妃殿下の先生でもあった

小泉信三さんは、新しい皇室のために翻弄します
象徴である天皇家

皇太子さまは
「自分は生まれと境遇からもどうしても世情にうとく、人に対する思いやりの足りない心配がある。
どうか、よく人情に通じた思いやりの深い人に助けてもらいたいものです」

世の中のことをよく知り思いやりのある人を伴侶としたいと
考えていたそうです。

そして、正田美智子さんと出会い、小泉信三さんは
お二人が結婚できるように尽力します。

それは、マスコミを周り、予測の報道をしないように頼みます。
さらに、美智子さまを皇太子妃に迎えるように説得します。
初めは断っていた正田家から承諾を得ます。

それまで、一派人との結婚は皇室ではなかった。
こちらも新しい天皇への一歩となりました。

一般人の美智子さまには皇室のことはよくわかりません。
そして、小泉信三さんは、皇室に入る美智子さまの
教育係もされたのでした。

結婚されてからも小泉信三さんはお二人の傍らに寄り添い
お二人を見守っていました。

それから、7年後小泉信三さんは心筋梗塞でこの世を去ります。

「忠恕」
自己の良心に忠実で人の心を自分のことのように思いやる精神です。
天皇陛下が小泉信三さんから教わって心に刻まれている言葉のようです。

象徴としての天皇陛下は小泉信三さんと天皇陛下で考え作り、行動された
国民から尊敬され、弱い人に寄り添う素晴らしい現在の天皇なったのだと
いうことがわかります。

天皇 運命の物語が放送に

来年4月30日に退位される天皇陛下。
皇后さまとともに歩んだ激動の歳月を4回シリーズで伝える。

天皇 運命の物語 第1話「敗戦国の皇太子」

2018年12月23日(日19時30分~20時43分の放送

第1回は、戦争という荒波にもまれながら成長した若き皇太子の姿を描く。

番組内容
昭和から平成へ?。「天皇 運命の物語」は、天皇陛下が皇后さまと共に歩まれた激動の歳月を、NHKの秘蔵映像、発掘資料、側近や学友の証言などを通じて、4回シリーズで放送します。第1回は「敗戦国の皇太子」。昭和8年に生まれ「戦争しか知らない」少年として育った天皇陛下が、学友との交流や恩師との出会い、19歳の時のイギリスへの訪問などを通じて、「未来の天皇」に向けて成長していく姿を描いていきます。

イギリスでは、敗戦国の皇太子として、エリザベス女王の戴冠式に出席することを批判する人たちもいた中、チャーチル首相が行動したことで
静まったという。

天皇 運命の物語 第2話「いつもふたりで」

イギリスから帰ってきた皇太子が次に

2018年12月24日(月) 19時30分~20時44分 の放送内容

日本中が沸いた「世紀のご成婚」。
その裏には、みずから人生を切り開こうとする皇太子の強い決意があった
3000本以上の皇室映像に記録された肉声から浮かびあがる皇太子夫妻の素顔とは。
貴重な証言や資料からひも解く一代記。

 

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