上田弘之は東京オリンピックのテレビ中継を宇宙中継でと考えがアンビリバボー

上田弘之は東京オリンピックのテレビ中継を宇宙中継でと考えがアンビリバボー

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2018年1月4日  19時00分~21時54分放送
奇跡体験!アンビリバボー2018 新春3時間SP!
【東京五輪陰で支えた男たち】が放送になる。

それまで不可能とされていたスポーツ中継を無し遂げた男

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番組ホームページでは

放送内容
1964年に東京で行われたアジア初のオリンピック開催の2年前、その準備に奔走し戦った男たちがいた!東京オリンピックを成功へ導いた“メダルなきヒーローたち”を描く!

国旗の準備に奔走した男たち
オリンピック憲章では、“各国旗は同じサイズにすること”との規定があるが、国旗の形はさまざまで、無理にサイズを合わせようとするとバランスが崩れてしまう。また、国旗にはその国の民族の誇りが象徴されているため、細心の注意を払う必要があった。そんな中、出場国の国旗を作る大役を任されたのが、当時二十歳の大学生だった!

渋滞を解消せよ!高速道路開通に奔走した男たち
当時の日本は戦後復興と共に街に車があふれ、東京の道路は至るところで渋滞が起きていた。オリンピック開催時、世界から4万人は訪れると見込まれていて、成功させるにはなんとしても高速道路を完成させなければならない!空中作戦、水中作戦など、さまざまな工法を駆使して、オリンピック関連道路全線が開通したのは、オリンピック開催のわずか9日前だった!

オリンピック中継にかけた男たち
自国にいながらオリンピックに参加してもらいたい!世界中の人にリアルタイムで映像を届けるため衛星中継に奔走した男たちを描く!

2020年東京オリンピック開催まであと2年!私たちはその時、世界に先駆けた未知なるテクノロジーを目撃することになるのかもしれません。競技場で躍動する選手たちに惜しみない拍手を送っているかもしれません。でも忘れないで欲しいのです。オリンピックを成功に導くために奮闘する、“メダルなきヒーローたち”がいるということを…。

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目次

今では当たり前にスポーツ中継はそれまでなかった

テレビ中継とは当時アンテナを立てないとテレビ放送はできなかった。

なので、海を渡ってのテレビ中継はなかった。
ビデオテープを空輸して各国は映像を見ていた。

1964年のオリンピックでは島国の日本では
世界中にオリンピック中継を行うことは無理だとされてた。

上田弘行が考えたのは、宇宙中継だった。

上田弘之の考えは突拍子もないものだった。

アンテナをたてられないなら

「宇宙を使えばいいという考えだ」
衛生を通して電波を世界中に中継できると考えた。

その頃、NASAでは36000キロという高い高さでの
静止衛星の打ち上げを計画していた。

シンコム1号は失敗した。とされていた。
映像を送るには
36000キロメートルまで衛生をあげなければならない。

しかし、NASAの関係者に話を聞くと

通信機器の不調により実験ができなかったが
36000メートルの静止静止衛星の打ち上げが成功していた。

シンコム2号で成功していたが
それは、日本の裏側だったため、中継は無理だと言われていた

そして、NASAの映像実験に上田も参加した。
が、映像はノイズがひどくスポーツ中継には向いていなかった。

技術が進歩し、シンコム3号を打ち上げる予定がNASAにはあったがそれは日本でも受信できる場所でもあった。

そのシンコム3号を使って東京オリンピックを全世界に
中継したいと上田は思っていた。

次の実験までに映像を圧縮する技術を使えるようにすると
訴え、シンコム3号を使わせてくれとNASAに交渉した。

NASAは無理だろうと上田をあざ笑うように言った。

上田はあきらめなかった

さらに、もう一つ、問題があった。
静止衛星から届いた電波を受信するアンテナが必要だというのだ。

それを作るには1億円

まだ、NASAからのOKが出ていないため予算は下りていない。
が、
上田はNECにアンテナを作ってくれないかと交渉に行った。
NECの担当は金額が大きいため社に持ち帰って検討すると
返事を濁した。

とにかく時間がないのだ。
OKが出てからでの制作では間に合わないのではと心配された。

そして、2回目のNASAの画像受信の日
以前よりも画像はよくなっていたがまだまだ放送できるほどではないと判断された。

そこでも上田は「1度目より技術が上がり、これだったら日本の画像処理の技術を使ったら、全然大丈夫」と太鼓判を押した。

そうして、シンコム3号を打ち上げることをNASAに承諾させた。

すぐさま、NECにアンテナの制作を依頼すると
すでに制作を開始してくれていたのだった。

そして、茨城県鹿嶋市に受信のアンテナをNECは完成させた。

NHKの画像圧縮装置、
NASAのシンコム3号
NECの受信アンテナ

の3つがなければできなかった。

しかし、それを実現させたのは、上田弘之さんの
あきらめない気持ちだったのだろう。

世界初めてのスポーツ中継、宇宙中継が実現した

スポーツをリアルタイムで見られることは、ドキドキ感があるだろう。
結果を知って観るのと全然違う。

オリンピックがリアルタイム見られるようになったのは
東京オリンピックからだったというのは知らなかった。

上田の情熱によって実現したと言っても過言ではないだろう。

さらに東京オリンピックで初めてだったこと

センタールームを作り、各競技の結果を集計することをしたのは
東京オリンピックから始まったことのようだ。

そのために各会場の結果がリアルタイムで分かるようになった。

マスターレコードブックを作ったのは日本の東京オリンピックからだった、

今までは、レコードブックが出来上がったのは閉会式が終わったのち1ヶ月後だったという。

それが、東京オリンピックでは閉会式の時にはもう出来上がっていた。

IOCの会長は世界記録だと絶賛したという。

すべて「平和の祭典」オリンピックを成功させたいと思う
情熱でできたことだったのだろう。

ここから、さらに日本の高度経済成長期へと入っていく

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