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高野虎市はチャップリンの運転手からの秘書、マネージャー!
15歳でアメリカに移住!五・一五事件との関係は?

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高野虎市(こうのとらいち)はチャップリンの秘書だった

高野虎市(こうのとらいち)さんは喜劇王チャールズ・チャップリンの秘書・マネージャーとして有名な人物です。

喜劇王チャールズ・チャップリン(1889年-1977年)は
世界の三大喜劇王とも呼ばれ、数々の傑作コメディ映画を作り上げました。

その作品は、ユーモアの陰に鋭い社会諷刺、下町に生きる庶民の哀愁や怒り、涙までも描かれているため、
純粋に笑いのみを追求する他のコメディアンとは一線を画す存在です。

その世界的に有名な喜劇王チャップリンのマネージャーが日本人の高野虎市(こうのとらいち)でした。

高野虎市さんは、15歳でアメリカに移住しますが
たまたま、チャップリンの運転手を募集しているところに応募するのです。
特に、チャップリンのファンだったというわけではなかったそうです。
運転手になってチャップリンの信頼を得て秘書、マネージャーにまでなっていくのです。

高野虎市とチャップリンの関係

高野虎市さんは

1885年に広島県安佐-郡八木村
(現・広島市安佐南区八木)の裕福な家庭に生まれます。

1900年 15歳でアメリカに移住します。
1913年 同郷のイサミと結婚
1916年 チャップリンの運転手に応募、採用される。
その後、秘書になり、1934年まで勤める。

高野虎市さんが、チャップリンの元を離れるきっかけとなったのは、1934年、当時のチャップリンのポーレット・ゴダードの浪費をチャップリンに進言したことでした。
これにポーレットが激怒。

高野虎市を取るかポーレットを取るかチャップリンに迫り、
自ら辞めた。

その後、チャップリンは何度も高野虎市に戻るように頼みますが
高野虎市さんは断ります。

チャップリンは

1903年 『ロンドン子ジムの物語』のサム役、『シャーロック・ホームズ』のビリー役を演じ、地方巡業にも参加

1908年 兄の勧めで名門フレッド・カーノー(英語版)劇団に入団1909年 パリ巡業
1910年 寸劇『スケート』や『ワウワウ』に主演し好評
1914年 『成功争ひ』で映画デビュー
1915年 シカゴのエッサネイ社(英語版)に週給1250ドルの契約で移籍。
14本の作品、監督・脚本・主演でチョビ髭にステッキという扮装のドタバタコメディは人気を博す。

1916年 週給1万ドルにボーナス15万ドル、年額67万ドル(アメリカ大統領の年俸の7倍)という破格の契約金でミューチュアル社(英語版)に迎えられる。

この時は兄がマネージャー、運転手として、高野虎市が採用される。

1918年 16歳の女優ミルドレッド・ハリスと初めての結婚 29歳
1920年 ミルドレッド・ハリスと離婚
1921年 全米で大ヒット中の映画『キッド』
1924年 女優のリタ・グレイ 16歳と2度目の結婚 35歳
1925年 『黄金狂時代』が記録的大ヒット
1925年 長男、翌26年には次男が誕生
1928年 『サーカス』を製作し、同年度の第1回アカデミー賞で特別賞を受賞
1928年 女優のリタ・グレイと離婚が成立

1931年 サイレントの孤塁、『街の灯』が興行的な成功し、
一年半に及ぶ世界旅行へと出立
1932年 女優のポーレット・ゴダード22歳と3度目の結婚 43歳

1942年 ポーレット・ゴダードと3度目の離婚
1943年 ウーナ・オニール 17歳と最後の結婚 53歳
亡くなる34年間連れ添う。
8人の子供を授かる。

高野虎市は五・一五事件でチャップリンを守った

五・一五事件が起こった1932年5月15日、チャップリンは来日していました。
もちろん、秘書として高野虎市さんも同行していました。

高野虎市さんは、不穏の空気を察知し首相主催の歓迎会出席をキャンセルします。
その歓迎会の時に犬飼首相は首相官邸で五・一五事件起きます。

チャップリンにも犬飼首相と同じ計画があったのではとの話しもあるようです。

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