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逸見政孝 たけしも安藤優子も号泣で話せなかった。
なぜがんを公表したのか直撃!シンソウ坂上で秘蔵映像も

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逸見政孝のがん告白はなぜかの直撃!シンソウ坂上

2018年8月9日放送の直撃!シンソウ坂上

テレビ黄金期を支えた逸見政孝アナ享年48歳…同志・安藤優子が25年の沈黙を破り初告白!なぜがん告白会見を開いたのか?闘病最期の3ヵ月間舞台裏▽秘蔵映像

番組予告では

今夜は、1993年12月25日に48歳という若さで他界した逸見政孝を取り上げる。同年、9月に逸見本人が「私が今、侵されている病気の名前、病名は…ガンです」と語り、日本中に衝撃を与えた記者会見から、わずか3ヵ月での訃報。『FNNスーパータイム』で逸見とコンビを組み、誰よりも近くで“アナウンサー・逸見政孝”を見てきた安藤優子に、坂上忍が直撃インタビューを敢行。安藤は、逸見が他界してから25年がたった今思うことなどを初告白する。 また、番組では逸見の秘蔵映像などをふんだんに使用し、彼の素顔に迫っていく。

逸見政孝さんというアナウンサーは

逸見政孝さんはフジテレビのアナウンサーからフリーに転身
フジテレビの黄金時代を駆け抜けたアナウンサー
真っ白の上下のスーツで『FNNスーパータイム』の初代メインキャスターで人気だった。

逸見政孝のプロフィール

氏名    逸見政孝(いつみまさたか)
愛称    いっつみい
出身地   大阪府大阪市阿倍野区
生年月日  1945年2月16日
没年月日  1993年12月25日
48歳没
最終学歴  早稲田大学第一文学部
所属事務所 オフィスいっつみい
(現: 株式会社オフィスいつみ)
職歴    元フジテレビアナウンサー
活動期間  1968年 – 1993年
ジャンル  報道・情報・バラエティ
配偶者   逸見晴恵
家族    逸見太郎(長男)
逸見愛 (長女)

大阪出身の逸見政孝さんはアナウンサーになるために早稲田大学に進学。
アナウンス研究会に所属だが、大阪弁が抜けず、標準語のアクセントには相当苦労したと後に語っている。

逸見政孝アナウンサーへの道

その方法は
ラジオとテープレコーダーを購入し、ラジオでアナウンサーの声を聞き、テープレコーダーで新聞記事を読む自分の声を録音。アクセント辞典を見ながら、録音した自分の声を聞き、間違ったアクセントで発音した語句は、ペンでマーク。
また、その語句を黒板に書き、覚えるまで消さないようにした。さらに、日常でも標準語で話すようにした。

逸見政孝さんの父親は広島県尾道市の出身で旧姓は毛利。
逸見家に養子入り長く福徳相互銀行に勤務。

厳格な父だったが、アナウンサーになるのをやっと認めてくれたおいう。

フジテレビに入局後は、若手時代の逸見は「暗い」、「つまらない」、「売れないだろう」という否定的な見方が大勢だった。

しかし、大橋巨泉は「わかんないぞ。逸見が突然、人気アナウンサーになるかもしれない」と後年の活躍を予期していたという。

初めはスポーツアナウンサーとして活躍。
プロボクシングやバレーボールなどの実況中継を担当していた。

それと同時にワイドショー『3時のあなた』サブ司会者としても活躍した。

その後、報道に関わり、キャスターとなる。
1978年、逸見政孝33歳の時だった。当時は30代でのキャスター起用は珍しかった。

1980年頃から、自宅新築のために結婚式の司会などの副業を始めた。
有名になるに連れて副収入も増え、フリーになることを考えはじめたという。

1984年4月、『FNNニュースレポート6:00』のキャスターに抜擢
同年10月 後番組としてスタートした『FNNスーパータイム』の初代メインキャスターも引き続き担当

その前番組の『夕やけニャンニャン』に設けられていた同番組の予告コーナーも担当し、
片岡鶴太郎やとんねるずと共演し、堅物イメージを払拭
逸見政孝の転機となった。

をテレビアナウンサーのプロマイド製作は史上初の出来事
それほど、人気者になっていた。

日航ジャンポ123便に乗るのを回避

さらにこんなエピソードもあった。

逸見の人気が沸騰した矢先の1985年8月12日
夏休みを取って家族4人で大阪への帰省のため、当初は日本航空の123便に搭乗する予定だったが
長男太郎が、「4人なら新幹線の方が安い」と提案、妻が飛行機嫌いであったこともあり、直前に東海道新幹線に変更

日本航空123便墜落事故の難を逃れた。
この飛行機には明石家さんまも乗ることになっていたが、早く番組が終わったことで一便早いものに乗って難を逃れたことも有名だ。
1986年には、名実ともにフジテレビの代表する看板アナウンサーとしての地位を確立し、ベスト・ファーザー イエローリボン賞にも選出。

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1987年 逸見政孝フリーに転身

勤続20年を迎えた1987年 逸見政孝さんは管理職に昇格したことにより、番組出演が減少
「生涯、一アナウンサーでありたい」と

1988年3月末をもってフジテレビを退社
三木プロダクションと業務提携を結んだ「オフィスいっつみい」を設立しフリーとなった。

安藤優子が強く希望し、『FNNスーパータイム』を継続

フリー転身後、『FNNスーパータイム』は安藤優子さんが強く継続を希望したことで1年間キャスターを続けた。

逸見政孝が亡くなった時に安藤優子さん、あのプロのアナウンサー、いつも冷静でプロの安藤優子さんが号泣して
話すことができなかった。

それほど影響があった逸見政孝さん。
「直撃!シンソウ坂上」では安藤優子さんに坂上忍さんが直撃するという。

『たけし・逸見の平成教育委員会』でたけしとの友情が

逸見政孝さんが亡くなった時に号泣して止まらなかったもう一人の人として有名なのがビートたけしさん。

『たけし・逸見の平成教育委員会』で共演して親友だった二人。

ビートたけしの生死をさまよう事故

ビートたけしさんは大きな事故を起こします。
生死を彷徨った。

幽体離脱したとも後に語っている。

その時には、逸見政孝さんが現れ、
「まだこっちに来てはいけない」と言っているようだった。
と生還を遂げる。

事故から2ヶ月後、退院会見をしたのは衝撃だった。
顔面麻痺が残ったままの状態で

それも逸見政孝さんによって生かされたと思ったからなのではとも言われている。

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