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田中明男さん89歳元日本兵ロシアで日本語を忘れ、72年ぶりに帰国!世界の村で発見!こんなところに日本人で

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田中明男(たなかあきお)さんを高岡早紀さん訪ねる

テレビ朝日 世界の村で発見!こんなところに日本人
戦争・離婚・絶景・波瀾万丈SP89歳日本兵
2018年10月30日(火)19時00分~21時48分 の放送

番組予告では

初参戦!寺島進が象でタイ山岳民族の村へ…38歳年の差夫婦
▽ロシア寒村…戦争に翻弄され日本語まで忘れた89歳!激動人生
▽ボリビア・ウユニ塩湖!奇跡絶景▽アフリカ30カ国

◇内容II
ロシア湿原の先…地図にもない小さな村に高岡早紀が。雷・土砂降りの中、出会ったのは日本語も忘れてしまった元日本兵89歳!15歳で戦地へ、サハリン収容所で5年、差別・迫害に苦しんだ激動人生!72年ぶりに日本へ帰国…涙の再会が!!

◇内容III
南米ボリビア!奇跡の湖・ウユニ塩湖に杉田かおるが向かう。人生初のヒッチハイクで涙し、新種の虫に刺されて感染…。“天空の鏡”とも言われる奇跡の絶景の村で出会ったのは、破天荒な67歳!

◇内容IV
アフリカ30カ国目。初のアンゴラで、せいじも驚く“虹&大瀑布”の奇跡の絶景が!出会ったのは、有名大企業の出世コースを55歳で捨て、この地に単身でやってきた男性だった。

この内容1が田中明男さんのことどのような経緯で田中明男さんは
ロシアに残ることになってしまったのでしょうか。

田中明男さんは15歳で入隊志願

これは「こんなところに日本人」での内容です。

田中明男さんは北海道遠別町(旧・遠別村)生まれ、

父はタナカ・トミイチさんで、江別と札幌に旅館を所有していた。母は幼い頃に亡くなった。
10歳の時に父と南樺太に出稼ぎに行った。

1945年15歳で志願して満州の関東軍に入隊します。
父の再婚相手のうまく行かず、そこから逃げ出したくて
国民学校を卒業し15歳で国民義勇隊に参加したという。

本人によると、前線では恐れぬ戦いぶりで、金の星の勲章をもらい、軍曹となった。
1945年砲弾の破片のため片目の視力を失いました。
終戦の1945年8月に関東軍60万の将兵と共に、ソ連軍の捕虜となり、中国からハバロフスクに送られた。

1947年ソ連に拘束されサハリンの収容所で5年間生活

10年間、ラーゲリで過ごし、第16収容所で森林伐採作の作業をしていたそうです。

その後、捕虜の解放が始まり、兵士達は船に乗って日本に帰還して行ったという。
しかし、指揮官は、現地に残ったという。
祖国に帰れば裏切り者として絞首刑となるか、銃〇されると信じていたと言います。

1952年23歳の時サハリンの家に戻ったが父親の消息は分からなかった
サハリンで船の積荷を運ぶ仕事に就いた。

1957年、サハリンでソ連の国籍を取得します。
その時に、ピョートルというロシアの名前を決められたという。
ピョートルはロシアではよくある名前だと言います。

東西冷戦状態でソ連国籍を持ったため日本に帰ることは許されなかった。

サハリンで数年後、ロシア人のレーナと結婚。
同じ職場の人だったという。
しかし、日本人であることで定職に就くことが出来なかったという。

その後ウラジオストクで彼は、エンジン係となる勉強をし、旅客船「イワン・クリビン」号で働いた。

それからレニングラード州に移り、レニングラード州の警察で働いていた
レーナさんの兄弟の仕事を紹介され現在のポギ村にやってきたと言います。

初めは牛を飼い、機械技師やボイラー技士など何でも仕事をこなし
生活は少しずつ安定していった。

終戦後一度も帰ることがなかった祖国日本に帰ることが夢だった。

そして、田中明男さんに転機が訪れる。
ロシア人記者を知り合い、田中さんの存在を日本領事館へ報告すると
毎日新聞が取材し、田中明男さんのことを2017年6月5日掲載の記事にしてくれたという。

そして、従妹2人が北海道で生存していることが分かったという。

ポギ村に来て数年後、奥さんのレーナさんは病死。
7年前の82歳の時に職場の同僚のバレンチナさんと暮らすようになったという。
22歳年下のバレンチナさんもまた、ご主人を亡くし、一人で暮らしていたという。
今では、隣町に住むバレンチナさんの孫のアリーナさん11歳がよく遊びに来てくれるという。

高岡早紀さんと話していて突然日本語を思い出したかのように
「私は好きであります。女房を」
知っている日本語は72年前のものだった。

田中明男さんの年齢は?ロシアの記録は本当か

田中明男さんは自称89歳。

田中明男さんの証言では
「終戦時の1945年から10年以上、極東ハバロフスクの収容所に抑留されていた」

と述べているが、旧ソ連の公的書類「労働手帳」によると
1953年1月から58年6月まで、サハリン中部のポロナイスク(日本名・敷香=しすか)にあったソ連の港湾施設で貨物運搬係として就労していた。

旧ソ連当局が成人男性に発給した「軍人手帳」にも、1956年6月にポロナイスクでソ連軍の予備役に編入されたとの記載があったという。

「終戦当時や戦後にサハリンに滞在していたことはない。なぜそんな記載があるのか分からない」と田中明男さんは、話している。

しかし田中明男さんと「収容所時代などに一緒だった」と語った日本人男性が当時はサハリンに住んでいたと証言もしている。

毎日新聞が報じた
第二次大戦後にシベリアで抑留されたとする北海道遠別(えんべつ)村(現・遠別町)出身の日本人、田中明男さんの自らの経歴に関する証言が少し食い違っているところがあったという。

生年について田中明男さんは「1927年」と述べている。
しかし、いずれの手帳も、田中さんが現在保有するロシアの身分証と同じく「1929年」と記載されているという。

そしてさらに、北海道遠別町に残る田中さんの異父兄、宮谷正一(しょういち)氏(故人)の戸籍謄本では「1932年」となっているという。

田中明男さんは何歳なのか、どこに収容されていたかなど、古すぎて記録がはっきりせず、本当のところはわからないということでしょう。

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田中明男さんの現在 ピョートル・タナカ

田中明男さんは現在年金生活者として
ロシア北西部レニングラード州ポギ村の一部屋のアパートに22歳年下の
奥さんと2人で住んでいる。

「田中明男さんの帰国を実現する会」の設立 夢は帰国すること

毎日新聞の記事を読んだ成蹊大学名誉教授の富田武さんが
遠別に住む田中さんの従妹を見つけてくれたという。

「田中明男さんの帰国を実現する会」の設立

田中明男さんの夢は

「残った片目でひと目でも日本を見てみたい!私の祖国がどんな風に変わったか、日本人が今どんな生活をしているのか見てみたい。特に桜の咲くところを見たい。桜は私にとって、ロシア人にとっての白樺のようなものだ。ただの木でもなくシンボル以上のものだ。私にとって、生まれや歴史、根っこにつながる何か聖なるものだ」

田中明男さん本人も

「1970年代に、レニングラードの日本総領事館に行って、自分の身の上を話したことがあった。領事館は、日本に連絡し調べてくれた。それにより、父は大分前に亡くなっていることが分かった。姉妹に手紙を書いたが、返事は来なかった。恐らく今も、私を裏切り者だと思って、許せないのだろう。我々の習慣では、捕虜となった者の家族は皆、私を恥と感じるからだ。」

と自ら帰るために動いたこともあったが怖くて帰れなかったのでしょう。

そして、田中明男さんは「田中明男さんの帰国を実現する会」の尽力のもと
2017年9月28日、日本の地に72年ぶりに帰国しました。

日本人と話すことがなかったため、日本語を忘れてしまったが
日本語を話すことで少しずつ思いだしてきたといいます。

そして、もう一度日本に行きたいと思っているという。

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