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村田渚さんの死因はくも膜下出血!コトブキツカサが真相を語る。 『ザ・発言X あの言葉で人生が劇的に動いた!!』

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2018年6月20日放送の『ザ・発言X あの言葉で人生が劇的に動いた!!』

番組予告では

ネプチューンがMCを務める「ザ・発言X」今回は“あの言葉で”人生が劇的に変わった人、初告白スペシャル

「彼は天才だった…」ボキャブラ世代の芸人たちが認める伝説の芸人の死の真相が初めて明らかに

『ザ・発言X あの言葉で人生が劇的に動いた!!』では
かつて『ボキャブラ天国』で一世を風靡するも、12年前に突然死した伝説の芸人・村田渚さんを特集する。

村田渚さんとは

かつて『ボキャブラ天国』で一世を風靡した「フォークダンスDE成子坂」のツッコミ担当の村田渚さん。

ボキャブラ天国が終わった後、「フォークダンスDE成子坂」はコンビ解消。

芸人として活動を続けていたが再び脚光を浴びることなく
2006年11月くも膜下出血により、35歳で突然死してしまった、伝説の芸人さん「村田渚」さん

コトブキツカサはプライベートでも仲が良かった

村田渚さんとプライベートでも仲よかったコトブキツカサさんはこれまで語ってこなかった“新事実”を初告白。村田さんの死にまつわるツラい過去を打ち明ける

コトブキツカサさんと村田渚さんの出会いは

ホリプロの先輩で、すでにフォークダンスDE成子坂は、お笑いシーンでは頭ひとつ抜けていて、雲の上の存在だった。

若手が行けないような飲み屋に連れて行ってくれたり、
「後輩じゃないツレだ。」と言って可愛がってくれたという。

第一発見者のはコトブキツカサだった

コトブキツカサさんは当時「佐野忠宏」の名前で芸人をしていた。

仕事場に現れず心配した村田渚さんの相方の松丘慎吾さんから依頼を受けて村田さんの自宅へ。

横たわっている村田さんを起こそうと足に触れたところすでに冷たくなっていた。
38時間前に亡くなっていた。原因はくも膜下出血だった。

無念の死だったが、コトブキは
「本当に穏やかな顔で。ある種、ほほえんでいた」
と証言した。

今でも芸人から絶賛の天才村田渚

さまーずやくりぃむしちゅー、土田晃之、古坂大魔王らなど
第一線で活躍する芸人たちが村田渚を絶賛
「トップランナーだった」とコメント。

「ツッコミ同士だったんで渚は…。後輩であり、ライバル。」(三村)

「僕ら世代のトップランナーだった。センセーショナルだったかな…」(上田晋也)

「笑いに飢えている…っていうか。24時間笑いのことを考えてないといけないんだな、って、すごく学ばせてもらいました。」(有田哲平)

「お笑い熱すごい…この人売れるんだろうなと。」(土田晃之)

「この人といたら何でもボケられる。唯一無二。」(古坂大魔王)

「今までの人生で一番面白いと思った」(バイきんぐ小峠英二)

生前最後の相方となった松丘慎吾さんは

生前最後の相方で後輩だった松丘慎吾さんも大絶賛

「雲の上の存在ながら楽屋に遊びに来てくれたり、話を否定せずに肯定してくれる」
「当時から特別な存在だった」
「お笑いの歴史があるなら1行記される、お笑いの年表に載る人」

きっかけはさまぁ~ず・三村マサカズのツイッター

ネットニュースによると企画のきっかけとなったのは、
さまぁ~ず・三村マサカズが5月にTwitterでつぶやいた村田さんに関する“とある発言”。

その発言探した!2018年5月20日につぶやいている
それがこちら!

「もったいない。生きていれば何とかなったのに」
「お前の分も俺がずっとやる、っていう意志をともにして歩んできた」

と三村マサカズは無念の表情を浮かべ、12年の思いを語った。

コトブキツカサのインタビュー

後輩で可愛がられていたけれど、村田渚さんにコンビを組むことを提案されたが、恐れ多くて断ってしまって、後悔している
コトブキツカサさん

もしも、あの時、断っていなかったら。。。
村田渚さんが亡くなっていなかったら。。。

現在のコトブキツカサさんの肩書き
「元芸人の現在は映画パーソナリティーといて活躍している」
はあったのだろうか。。

以下コトブキツカサさんのインタビューだ

――どういう人だった?
いつも僕の話を否定せずに肯定してくれる、こっちに歩み寄ってきてくれる人でした。僕が村田さんとよく飲んでいるっていうと、「あの村田さんと!?」って格がすごく上がるんです。村田さんと飲みたがっている芸人って本当に多くて。酒の席だと芸人って、女性の話とかメシの話とかいろいろあるじゃないですか。でも渚さんは「お笑いだけでいい」って、笑いがアテみたいな感じでした。僕が知る限りトップランクにお笑いが好きな人ですね。お笑いの話をずっとしていたい人なんですよ。

――コンビ解散後から亡くなるまでの思い出
実は、お互い1999年の年末に解散して、年明け2000年1月に村田さんから「何かやらないか」「漫才とかコントとか」って言われたことがあるんです。それってコンビってことですよね。ただ僕は、前の相方の桶田敬太郎さんと比べられる重責にはとても耐えられそうになくて。それにこの関係を崩したくない気持ちもあって、コンビを組むことから、逃げました。結局2人でトークライブをすることになって、最初は路上でやっていましたね。その後、僕の友人でもあった松丘(チャイム・だんな)とコンビを組むって聞いたときは複雑な気持ちになってしまって。クラスのマドンナに告白されたのにカッコつけて断った感じというか、モヤモヤしましたね。

――本番組で“初事実”を語った理由
渚さんの半生を本にしたくて、水道橋博士のメルマガ『水道橋博士のメルマ旬報』で、連載『マン・オン・ザ・ムーン~僕と村田渚の物語~』を書いているんです。担当の編集さんが村田さんのファンで「本を出したい」と。そこにちょうど今年が渚さんの十三回忌で、なにかやろうって話が出ていて、やはり渚さんについて知ってほしいなと。これまで語らなかったのは、この事実が僕にとって“本質”じゃないからです。このことで当時、周りから“運命”のようなことを言われたんですが、そこじゃないというか。もし渚さんと僕の運命的なことを考えるなら、僕の芸名ですね。渚さんが亡くなる1ヶ月くらい前に、渚さんがネタで使っていたこの名前を芸名にしたいという相談をしていて。でもその返事がもらえないまま亡くなってしまいました。

――番組を通して伝えたいこと
若い方はご存じないかも知れないですけど、村田渚って人は“隠れた名バイプレーヤー”ではなく、当時から特別な存在だったんです。お笑いの歴史があるなら、1行記されている人だと思っています。お笑いの年表に載る人だと僕は思っていて、それを知ってほしいです。「実は」という存在じゃなくて、確実にいましたから。忘れないでほしいですね。

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