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天城山心中事件「天国に結ぶ恋」と言われ「われ御身を愛す」はベストセラーに!しかし別の説も?!彼はストーカーだった?!

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天城山心中事件とは

1957年12月10日、天城山中の森林で、4日から行方がわからなくなっていた学習院大学2年の愛新覚羅慧生さん(あいしんかくらえいせい)さん(19歳)と、同級生の大久保武道さん(19歳)が死んでいるのが発見された。この心中は「天城山心中」と名づけられた。

天国に結ぶ恋

慧生さんは大久保さんに腕枕をしてもらうようにしており、顔には白いハンカチがかけられていた
大久保さんは手に旧陸軍14式短銃を握っており、慧生さんの右コメカミを撃った後、自らも撃ったとみられる。
2人のそばのサルスベリの木の根本には、2人の爪と頭髪が白い紙に包んで埋められていた。

青森県八戸高校から学習院大学進学、地元では名士の家柄ながら、田舎者とかたや、父はラストエンペラーの弟で母も元公爵・嵯峨実勝の長女と家柄の格差は大きい。

故に「この世で結ばれないならあの世で」と二人の純愛を世間は美しいもののように騒ぎ立てたという。
「旧華族の娘と庶民の子弟の情熱の死」「身分違いの恋」などとマスコミにも頻繁に取り上げられて
二人が交わしあった手紙をまとめた「われ御身を愛す」は当時大ベストセラーになったと言われている。

われ御身を愛す―愛親覚羅慧生さん・大久保さん武道遺簡集 (1961年)
われ御身を愛す―愛親覚羅慧生さん・大久保さん武道遺簡集 (1961年)

愛新覚羅慧生さん(あいしんかくらえいせい)のプロフィール

1938年(昭和13年)2月26日、満州国の首都・新京生まれ

父  旧満州国皇帝・溥儀(ふぎ)の弟・溥傑(ふけつ)
母  元公爵・嵯峨実勝の長女

父と母の婚姻は、日満の架け橋として「親善結婚」だった。東京での結婚式のあと、2人は満州国へ

慧生さんは5歳の時に両親のもとを離れ、横浜市港北区の祖父・実勝氏に引き取られる
幼稚園から大学まで学習院に通学
45年8月17日、ソ連軍が新京に侵入し、両親と妹は離れ離れになるも母と妹は上海から佐世保に引き上げてくる。
慧生さんと10年ぶりに対面し、その後は嵯峨家で一緒に暮らす。
父の溥傑は北京の戦犯管理所に収容されていた。

学習院女子部から学習院大学の国文科に進学。その美貌は学内でも知られていた
「学校をおえたら、私は日本に残り、日中文化の交流につくしたいと思うわ」
という心優しい才女だったという。
慧生さんは美しく社交的で快活、いつも学内の中心にいる存在だった。

大久保武道さんのプロフィール

青森県八戸市の南部鉄道常務取締役の長男
父親は参議院に立候補したこともある名士

八戸高校から学習院大学進学、文京区森川町の新星学寮に下宿

戦前の学習院は皇族、華族の子弟、縁故者しか入学できない
いわゆる「貴族学校」だった。

戦後になると一般の子弟も入学できるようになった。
しかし、実際は産家の子どもがほとんどだったという。

大久保さんもその地方の資産家の息子だったわけだ。
丸坊主で学生帽を被り、質実剛健、感情と行動に距離がなく、猪突猛進、愚直な性格で、都会的で洗練された学習院の学生の中では異質な存在

二人の出会い

1956年、4月。大久保武道さんと愛新覚羅慧生さんは、それぞれ学習院大学文学部国文学科に入学した。
慧生さんはは初等部から女子だったため初めて男子と同じクラスになった。

訛りを気にしてクラスで1人ぽつんといた大久保さんにクラスメートとして声をかけたのが始まりだった。

大久保さんは優しくしてくれる慧生さんに感激して女神のように思ったという。
しかし、彼女は学内の華で心を寄せる男子学生の取り巻きも多かったそうで、大久保さんのことを単なるクラスメートとしか思ってなかったようだ。
ただ慧生さんの周りにはいないタイプの無骨で愚直な大久保さんの行動は、上流階級育ちの彼女には新鮮な驚きだった。

入学した年1956年6月26日、大久保さんは初めて慧生さんと2人で会話をして身の上を聞き、自宅まで送った大久保さんに嵯峨家では、他の学習院生とあまりに異なる風体に慧生さんの家族の反応は厳しく、
それ以来、慧生さんは大久保さんを家に来ないようにしていたという。

とにかく熱い人のようで情熱が溢れていたようだ。
8月頃の慧生さんは大久保さんに好意はあるものの、それはあくまでも友情であり、特殊な生い立ちである自身の今後の人生を考え、迷いながらも冷静さを保とうしていた。

11月30日 身体の弱い慧生さんが体調を崩して大学を休むと大久保さんが自宅に見舞いに訪れる。
病気であるからと家族に面会を断られても、通された応接室から1日動こうとしない大久保さんの極端な行動を見て
特に慧生さんの祖母が警戒し、彼との交際を厳しく禁じたという。

押してもダメなら引いてみな

「押してもダメなら引いてみな」の手中にはまった?と言ってもいいだろう。
大久保さんはそんな駆け引きができる人ではなかったのだろうが、結果的にそうなった。

12月に入るとに大久保さんは慧生さんへの思いを断つべく実家に帰省し、断髪して座禅を組み断食修行を行った。

絶縁状を受け取った慧生さんは毎日のように大久保さんに手紙を送ったという。
体調がまだよくなっていなかったこともあるとはいえ、これで大久保さんへの気持ちが一気に向いた。

慧生さんの手紙を見て喜んだ大久保さんは東京に戻って嵯峨家を訪れるも面会は断られたという。

婚約へ

次の年1957年2月、二人は婚約を決める。

しかしその後、冷静さを取り戻した慧生さんは友人達の猛反対にもあい何度か大久保さんに「婚約解消」を持ち出すも
その度に彼が自暴自棄になって解消は立ち消えになるという事を繰り返す。

家族に交際を知られないように手紙の槍といrは友達の名前で作った封筒で行うなど工夫をしていた

7月、大久保さんはアルバイトを始め、結婚のための貯金をしようとする。
月に一度、貯金に行くという約束をしている。

10月末 大久保さんの父が愛人に子供を産ませていた事を知り大久保さんはかなりのショックを受ける
11月31日、慧生さんから大久保さん宛の最後の手紙には、月曜日に毎月の貯金に一緒に行く事が書かれているだけだった。
慧生さんがまた体調を崩す
12月1日の日曜日、大学の「東洋文化研究会」というサークルに入っていた慧生さんは、この日来日した印・ネルー首相が各大学の学生を招待したティー・パーティーに出席すると言って家を出た
38度近くの熱があって早く帰ってきた。

夕方、大久保さんと見られる男から電話がある。
慧生さんは「私、風邪をひいて休んでおりますのよ。そんなこと無理ですわ。……いらして頂いても困ります」
と珍しく声を荒らげていた。

押し問答のようなことが続いたあと、電話を切った慧生さんは「ちょっと、お友達に会いに自由が丘まで行って来ます。1時間くらいで戻りますから」と家族に言って家を出た

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事件への兆候は

大久保さんは「命がけ」という言葉をよく使い、
「ごまかしながら生きるより、清く死を選ぶ」
という死に対する衝動が常にあった。

父の愛人問題には心を痛めその父の血が自分にも流れていると悩んでいたという。
その頃、よく「自〇したい」と周りに漏らしていたという。

事件前夜、12月2日には慧生さんは少なくとも3人にSOSのサインを送っていた。
大学で授業の前、親友の「オサト」に、バッグから取り出した拳銃を見せている

「大久保さん君が青森のご実家から持ち出されたものなの。『この銃で自〇する』とおっしゃって。わたくし一生懸命説得してお預かりしましたのよ」

クラスメイトは皆大久保さんの自〇願望を知っており、オサトは慧生さんにそんなものを持っていたら危ない、誰かに預けるよう言い、慧生さんが「ええ、そうしますわ」と返事をしたという。

もう1人の親友「木下」も同様に慧生さんから拳銃を見せていた。
しかし、日頃から2人の揉め事を聞かされていた木下は、
それがこんな結果に繋がるとは思わなかった。

慧生さんの最後の手紙によるとこの日に大久保さんは自〇を決意したという。
それを慧生さんを止めることができず、同意したという。

事件は起こった

12月4日普段通り、慧生さんは大学へ行く。
午前中には学生に目撃されている。が夜慧生さんが家に戻らない事から家族が探し始めた。

12月5日、穂積(大久保さんが入寮していた学生寮の寮監で、大久保さんの父の旧友)の元に慧生さんからの最後の手紙が届く。
大久保さんと同室の寮生から、2日前に身辺整理をしていた事、伊豆の地図を見ていた証言が出る。
秋には大久保さんが1人で伊豆へ旅行していた事も確認

12月6日 朝から寮生たちが伊豆方面に捜索に出る

12月7日 新聞各紙の朝刊に「男友達に同情して“プリンセス”心中行ー元満州国皇帝のメイ家出」

12月8日 大久保さん家と嵯峨家の話し会いが持たれ、2人に関する一切を穂積に一任し、穂積は新聞・ラジオを通じて「姿を現せば2人の交際を認める」と呼びかけた

12月10日 午前9時半頃、天城山頂トンネル入り口から八丁池へ登るコースを登った雑木林の中で、地元消防団員が2人の遺体を発見

慧生さんは最後の手紙を4日の午前8時頃に学生寮の穂積宛に記し、その日の午後に投函したと見られる。

なにも残さないつもりでしたが、先生(穂積)には気がすまないので筆をとりました。大久保さんからいろいろ彼自身の悩みと生きている価値がないということをたびたび聞き、私はそれを思い止まるよう何回も話しました。二日の日も長い間大久保さんの話を聞いて私が今まで考えていたことが不純で大久保さんの考えの方が正しいという結論に達しました。
それでも私は何とかして大久保さんの気持を変えようと思い先生にお電話しましたが、おカゼで寝ていらっしゃるとのことでお話できませんでした。私が大久保さんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません。また私と大久保さんのお付き合いの破綻やイザコザでこうなったのではありませんが、一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。両親、諸先生、お友達の方々を思うと何とも耐えられない気持です

事件後の両家は

慧生さんの母・浩や嵯峨家では2人の交際を認めておらず、事件はピストルで脅され連れ出された上での無理心中であると主張していた。
それに対して大久保さん家は

2人は合意の上での情死という認識であり、2人の同級生や関係者がマスコミに様々に証言し、2人の書簡を発表して映画化され悲劇の純愛物語として流布される

50年経って親友が口を開いた

証言したのは親友の「オサト」前日に拳銃を見せられてSOSを出されてた親友だ。

2009年に、事件について初めて証言したという。

オサトは慧生さんの中高生時代からの親友で、大久保さんとの出会いや交際についても相談されていた。

失踪後の2人の捜索にも加わり慧生さんの遺体とも対面、告別式では学生を代表して弔辞を読んでいた。

その事件から1ヶ月後に学習院を退学したのもショックの大きさを感じられる。

オサトは捜索時に、タクシーの運転手の証言を聞いていた。
慧生さんはしきりに帰りのバスの時間を尋ねていたという。
慧生さんが「帰りましょう、ねえ帰りましょう」「今ならまだ間に合うから、帰りましょう」と繰り返し大久保さんを引き止めていた様子を聞いている。

慧生さんは最後の手紙を投函した後も、山に入る直前まで
「死ぬつもりはなく」「死にたくなかった」
けれども、帰るに帰れなくなり、死に引きずり込まれて行った状況を伺わせている。

ストーカーともいえる

大久保さんにはこんな証言もある。

大久保さんは独占欲が強く、慧生さんが他の男子生徒と口を聞いただけで責めたてたり、その生徒に決闘を申し込もうとしたことがあったらしい。

大久保の求愛に困っていた慧生さんは上級生が
「今逃げるとますます執拗に追ってくると思う。母のような立場に立って、彼の悩みを徐々に癒してやってもらえないか」と助言していたこともあった。

慧生さんは何度も「交際したくない」とはっきり断り、
6月には寮長に、
「大久保さんと交際したくないので、よろしくはからっていただけませんか」という手紙を出している

彼女のことが好きで好きで、彼女につきまとい
彼女を射止め、そして、自分の気持ちを彼女に押し付けて?
一緒に伊豆に連れて行った?
こういう人は現代ではストーカーと呼ばれても仕方ないのかもしれない。

男女のことはふたりにしかわからない。
これもまさにその通りだろう。

調べれば調べるほど、ホントのところはわからない事件だ

彼への手紙より

武道様がいらっしゃらなかったら、とうてい私はイージーゴーイング的な生き方からぬけきれなかったかもしれません。私の身体がよわいにもかかわらず、身をもって私を生涯導いてくださろうとしてくださる武道様があったからこそ、私はいままでの生き方を抜けることができたのだと思います。
大久保さん宛て書簡

大久保さんはお父さんのことで大変悩んでいます。私はそんなことで悩むのはオカシイといいました。しかし大久保さんの話を聞いているうちに私の考えが間違っているのに気づきました。私は死ぬことは思い止まるようにと何度もいったのですが大久保さんの決意はとてもかたいのです。彼を一人だけ死なせるわけにはまいりません。

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