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三島由紀夫 子供の現在は?三島由紀夫の知られざる姿を爆報フライデーで!事件で重傷を負った元自衛官が出演!

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三島由紀夫の作家人生は

三島由紀夫は、戦後の日本文学界を代表する作家の一人
ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である

代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『憂国』、『豊饒の海』四部作など、戯曲に『鹿鳴館』、『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』などがある。

人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。

三島由紀夫の子共は二人いる

長女 平岡紀子(ひらおか のりこ)

1959年(昭和34年)6月2日 58歳
日本の演出家
三島はもともと「尹」と名付けたかったが、当用漢字にないので諦めたという。

大田区馬込東1丁目1333番地(現・南馬込4丁目32-8)の家で育った
学習院幼稚園から学習院初等科に通った。皇太子徳仁親王とは学習院幼稚園と初等科で同級生。

学習院女子中等科、学習院女子高等科を経て、1982年(昭和57年)3月20日、学習院大学文学部仏文科卒業

長男 平岡 威一郎(ひらおか いいちろう)

1962年(昭和37年)5月2日 55歳
日本の元実業家

小学校はお茶の水女子大学附属小学校に、
中学から開成中学校・高等学校に学んだ

三島は他人に自分の子供の話などしない人間だったが
自決(1970年11月25日)を覚悟していてその日が近づくころ11月13日には
「僕は威一郎が可愛くて可愛くてどうにも仕方がない、本当に可愛いんだ」

さらに、23日か24日頃には、母親にも「お母様、僕はもう威一郎を諦めました」と言ったという

子供は本当に可愛かったようだ。

子供が可愛くなつてくると、男子として、一か八かの決断を下し、命を捨ててかからねばならぬときに、その決断が鈍り、臆病風を吹かせ、卑怯未練な振舞をするやうになるのではないかといふ恐怖がある。そこまで行かなくても、男が自分の主義を守るために、あらゆる妥協を排さねばならぬとき、子供可愛さのために、妥協を余儀なくされることがあるのではないか、といふ恐怖がある。(中略)
静かな道の外灯のあかりに、影法師が出た。これを見て、私はギョッとした。家人と私との間に、ちやんと両方から手を引かれた小さな影法師が歩いてゐる。(中略)動物的必然とはいひながら、正に人間と人生のふしぎである。(中略)私は、何ともいへぬ重圧的な感動に押しひしがれ、もう観念しなければならぬと思つた。
引用:三島由紀夫「子供について」

現在の活動は表立っていない。

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三島由紀夫のプロフィールは

本名       平岡 公威(ひらおか きみたけ)
生年月日     1925年1月14日
没日       1970年11月25日
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(45歳没)
住所       東京府東京市四谷区永住町2番地
(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)
最終学歴     東京大学法学部法律学科卒業
大蔵省に入所するも9ヶ月で退所
父は梓は官僚だった

配偶者      平岡瑤子
子供       平岡紀子、平岡威一郎
親族
松平乗尹(五世祖父)
三好長済、永井尚志、松平頼位、橋一巴(高祖父)
平岡太吉、永井岩之丞、瀬川朝治、橋健堂(曾祖父)
平岡定太郎、橋健三(祖父)
平岡なつ、橋トミ(祖母)
平岡梓(父)、倭文重(母)
平岡千之(弟)、美津子(妹)
橋健行、橋行蔵(伯父)
平岡萬次郎(大伯父)
大屋敦(大叔父)
平岡萬寿彦、磯崎叡、永井三明(父の従兄弟)

主な受賞歴
豊饒の海』(1965年-1970年)
主な受賞歴 新潮社文学賞(1954年)
岸田演劇賞(1955年)
読売文学賞(1956年・1961年)
週刊読売新劇賞(1958年)
フォルメントール国際文学賞第2位(1964年・1967年)
毎日芸術賞(1964年)
文部省芸術祭賞(1965年)
フランス・ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位(1965年)

戦争に翻弄された青年時代

幼少年期は詩を書く少年
中等科5年に7月に「花ざかりの森」を書いている。
「天才」が現われたことを祝福し合い、『文藝文化』掲載を即決したという。
その時に本名を伏せた方がいいということで「三島由紀夫」となった。
1944年(昭和19年)9月9日 学習院高等科を首席で卒業
同年10月1日 東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)

団藤重光教授による刑事訴訟法講義の〈徹底した論理の進行〉に魅惑され、この時修得した法学の論理性が小説や戯曲の創作において極めて有用

1945年(昭和20年)、戦況が激しくなり大学の授業は中断され、公威は1月10日から「東京帝国大学勤労報国隊」として、
群馬県新田郡太田町の中島飛行機小泉製作所に勤労動員され、総務部調査課配属となった

2月4日に入営通知の電報が自宅へ
〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪と遺爪を用意した
2月6日兵庫県富合村へ出立した
2月10日の入隊検査の時に母から移った風邪を新米軍医が「肺浸潤」と誤診され即日帰郷
その部隊は、フィリピンに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅している。
自宅に戻ると、一家は喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れで1人ぼんやりとした様子で、「特攻隊に入りたかった」と真面目につぶやいたという。

戦死を覚悟していたつもりが身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯、コンプレックスとなっている。

終戦後の苦悶と焦燥

1945年8月終戦近くには〈世界の終りだ)と虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いたという。

終戦の日、天皇陛下のラジオの玉音放送を聞き、
「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」
と父・梓が言ったという。

戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚えたという。

川端康成との出会い

「中世」と新作短編「煙草」の原稿を携え、帝大の冬休み中の1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉二階堂に住む川端のもとを初めて訪問している。

煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める鎌倉文庫発行の雑誌『人間』の編集長・木村徳三に原稿を見せ、掲載決定がなされた
以後、川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりが形づくられたという。

学生作家時代 太宰治との対面

三島は太宰の〈稀有の才能〉は認めていたが、その〈自己劇画化〉の文学が嫌いで、〈愛憎の法則〉によってか〈生理的反撥〉も感じていた

1946年(昭和21年)12月14日太宰理解者の亀井勝一郎を囲む集いに参加する

1970年11月25日クーデター未遂事件

1970年7月、三島は保利茂官房長官と中曽根康弘防衛庁長官に
『武士道と軍国主義』『正規軍と不正規軍』という防衛に関する文書を政府への「建白書」として託したが、
中曽根に阻止されて閣僚会議で佐藤栄作首相に提出されることはなく葬られた

11月24日、決起への全ての準備を整えた三島と森田必勝、小賀正義、古賀浩靖、小川正洋は、午後6時頃から新橋の料亭「末げん」で鳥鍋料理を注文し、最後の会食をした[370]。午後8時頃に店を出て、小賀の運転する車で帰宅した三島は、午後10時頃に離れに住む両親に就寝の挨拶に来て、何気ない日常の会話をして別れたが、肩を落として歩く後姿が疲れた様子だったという

1970年(昭和45年)11月25日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如益田兼利総監を人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した
三島事件とも言われる

爆報フライデーでは吉村真理が出演

吉村真理は三島由紀夫をとりまく美女のひとりだった。
1960年の知人のバーティで知り合う。吉村真理25歳の時だった。

その後、取材で自宅を訪れる。
自宅は大田区に現在もある「白亜の豪邸」ロココ調のオシャレな家。
後に、篠山紀信さんが写真集を出して有名になった。

何でも没頭する性格だった。
ボディービルや俳優業にも夢中だった。
1696年6月からは
勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演する映画『人斬り』(五社英雄監督)の撮影に入り、薩摩藩士田中新兵衛役を熱演した。

共演した仲代達矢が大阪行きの飛行機内で、
「作家なのにどうしてボディビルをしているんですか?」
と尋ねると、三島は
「僕は死ぬときに切腹するんだ」、「切腹してさ、脂身が出ると嫌だろう」
と答えたので、仲代は冗談の一つだと思って聞いていたという。

1968年 自衛隊に体験入隊

三島事件後、妻平岡瑤子さんが送った壮絶な人生を追う。

妻・平岡瑤子さんのプロフィールは
1937年(昭和12年)2月13日生 – 1995年(平成7年)7月31日没
画家・杉山寧の長女。日本女子大学英文科2年在学中の21歳の時に三島と結婚(大学は2年で中退する)。三島との間に、紀子、威一郎の一男一女を儲ける。急性心不全のため58歳で死去

事件後、傷をつけた自衛官の自宅に手向き謝罪をしていた。

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