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ビートたけしが勝てないと思った天才芸人は誰?水トク!「1番だけが知っている」で告白!

ビートたけしさんは日本ではお笑いのビック3
タモリさんと明石家さんまさんの3人。

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水トク!「1番だけが知っている」の番組で告白

お笑いのビック3だけでなく
たけしさんは「世界の北野」として映画監督としての才能も世界から認められている。芸術方面にも多くの才能が光っている。

ビートたけしさんが勝てない叶わないと感じさせた天才芸人さんは誰なのか

番組で告白する。

それは明石家さんまさんだった

明石家さんまだった!ビートたけしが勝てないと思った天才芸人!

 

たけしさんは、人を認める発言をするのを何度も聞いたことがある。
冷静に人を見ているのだと感じる
それが映画監督に繋がっているのだろう。

お笑いBIG3と言われているたけしさんだが
お笑いに対してすごく自信があるわけではないようで

芸術関係にも手を広げているのかもしれない。

なので、「お笑い一筋」の人を「勝てない人」と思ったのではないかと思われる。

テレビに出ている有名人ではないかもしれない。

今まで尊敬していると言った芸人は

たけしさんが今までの発言で尊敬していると思われる芸人さんは

横山やすしさん
葬儀の時には
「雲の上にいるような人だった。やすしさんには芸も色気も敵わない。もう少し漫才を続けてほしかった」
とコメントしている。

破天荒で有名なやすしさんを尊敬していたのはやはり天才好み

島田洋七さんとの親交も深い

漫才ブームはたけしさんのツービートも洋七さんのB&Bも大変な人気だった。
漫才ブームが終わり、たけしはその後もBIG3へと登っていくが
洋七さんは引退も考えた。

その引退を引き留めたのたけしさん、「芸人やめるなら友達もやめる」
洋七さんの芸人としての才能をかっていたからこそ出た言葉だろう。
仲がいいのは所ジョージさん

その他逸見政孝さんとの交友も有名で
逸見政孝さんがガンを再発してから断酒を決行するなど
逸見さんへの思いが強かった。

お葬式の時も弔辞を読む予定だったが、泣き崩れていてそれどころではなかったというのは有名だった。
逸見一家とはその後も交友があるようで息子の逸見太郎さんは
何かと相談できる存在のようだ。

しかし、今回水トク!「1番だけが知っている」で告白する芸人さんとは、今までに言われているこの中に人ではないかもしれない。

立川談志を尊敬して、一門に入り、高座名「立川錦之助」を持つ
近年は落語を口演する際、立川談春から一字もらい「立川梅春」を名乗っている。

ビートたけしのお笑いへの道は

ビートたけしさんは浅草生まれの足立区育ちで
貧乏だった。その話はよくするが

貧乏から抜けるためには学歴が大事だという母の教育ママぶりも有名だ。
兄弟は優秀ですぐ上の兄は淑徳大学教授(もと明治大学教授)、工学博士でタレントでもある北野大さん

長男も技術者で宇野製作所の取締役である北野重一(2012年没)だ。

母の言いつけ通りにちゃんと勉強した兄2人に対して末っ子のたけしさんは大学こそ明治大学へ進むがその後学校にはあまり行かず
バイト三昧になり、
1972年(昭和47年)夏、浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始めたことから
芸人への道を進むことなる。
フランス座の4畳間の屋根裏部屋で寝泊りして修行していた。

しかし、教育ママのお母さんは芸人なることを認めず
断絶状態になっていく。
当時を

「北野家においても、近所の体裁を考えて「芸人を目指した北野家の武」という存在は無かった事になっていた。」

という。

そして、漫才の「ツービート」を結成するが初めは売れず
地方のキャバレー周りなどもしていた
漫才を見ない客やホステスにケンカを売ったりと
「暴走ネタ・危険ネタ」へと進むことなったとされる。

その頃にB&Bと知り合っている。
それから漫才ブームへと進むことになる。
その後の活躍は知られるようにBIG3へとなるが
たけしさんには数々に試練が続く。

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フライデー襲撃事件

1986年(昭和61年)12月9日、お笑いタレントのビートたけしをはじめ、たけし軍団ら12名が写真週刊誌『フライデー』 (講談社)の編集部を襲撃した事件

1987年6月10日、たけしに懲役6か月、執行猶予2年の判決が下された
執行猶予判決が確定するまでの約8か月間謹慎する
たけし軍団メンバーは1987年3月2日に起訴猶予処分となった

なお、当時たけしと交際していたといわれた専門学校生の女性に対する傷害で告訴された記者は、1987年12月22日に罰金10万円の判決を受け、控訴をするも棄却されて判決が確定している

たけし軍団のメンバー
柳ユーレイ(現:柳憂怜)(23歳)
大森うたえもん(27歳)
サード長嶋(20歳)
ガダルカナル・タカ(30歳)
グレート義太夫(27歳)
ふんころがし(現・ダンカン)(27歳)
キドカラー大道(22歳)
大阪百万円(23歳)
そのまんま東(現:東国原英夫)(29歳)
松尾伴内(23歳)
19歳の少年A(水島新太郎)
(たけし軍団からたけしさんは「殿」と呼ばれている)

この事件のきっかけは

ウィキペディアによると

1986年12月8日、東京都渋谷区の路上で、ビートたけしこと北野武(以下「たけし」、当時39歳)と親密交際していた専門学校生の女性(当時21歳)に対し、『フライデー』の契約記者が、女性が通う学校の校門付近でたけしとの関係を聞こうと声をかけたが、それを女性が避けて立ち去ろうとしたため、記者が前方に立ちふさがってテープレコーダーを彼女の顔に突きつけ、手を掴んで引っ張るなどの行為に及び、頸部捻挫、腰部捻傷で全治2週間の怪我を負わせた

これに怒ったたけしは、フライデーの発行元である講談社に電話をかけ、強引な取材に抗議した上、「今から行ってやろうか」と通告し、翌12月9日の午前3時過ぎ、たけしはその弟子集団であるたけし軍団のメンバー11人と共謀して、タクシー3台にそれぞれ4人ずつ分乗し東京都文京区音羽にある講談社本館のフライデー編集部に押し掛け、その結果、暴行傷害事件へ発展した。田中康夫による裁判傍聴記においては、当初たけしは手を出さないよう軍団メンバーに言っておいたものの、当時の編集次長による「自分は空手が得意である」旨の発言をはじめとした、編集部員の挑発的言動が原因で暴行に至ったと記されている。

判決を下した裁判官は、たけしらの行為を厳しく断罪すると共に、フライデー側の過剰な取材にも苦言を呈した。

この事件によって過剰な取材に対して、世間の風当りが強くなったといわれている。

たけしの回想録によると

示談が成立しているにもかかわらず、当時の後藤田正晴内閣官房長官が裁判を強硬に主張したという。裁判では暴行は棚上げされ、もっぱら取材方法が焦点となった。これは、当時ライバル誌の『FOCUS』がフライデーと異なり、国会議員を主要なターゲットとしていたためだとたけしは分析している

最近では文春砲と、相変わらずスクープ合戦は続いているが
掲載前には本人の確認を取ることはしているようで
一般人の顔を出すようなことや無断で掲載することはナクナッテいる。

たけし軍団のフライデー襲撃事件は一石を投じているようだ。

1987年 約7か月ぶりに生放送でタモリさんまのトーク企画としてテレビに復帰
1988年 当時のフライデー編集部と神宮草野球場で草野球の交流試合が行われ、正式な和解の場が持たれた

バイク事故

これもウィキペディアによると

1994年(平成6年)8月2日午前1時40分、原付バイクで東京都新宿区の安鎮坂付近を走行中に自損事故を起こし頭部に重傷を負った

事故後は東京医科大学病院に救急搬送されて一命を取り留めたものの
長期の入院などにより約半年間に渡ってテレビ出演が出来なくなった
事故は酒気帯び運転によるものであったために書類送検され、起訴猶予処分を受けた

退院時、暫くは顔面の半分が麻痺した状態であった。リハビリにより回復したが、退院会見では「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と、自らの怪我をネタにした。翌年3月4日の平成教育委員会でテレビ復帰し[注 12]、その後レギュラー番組にも復帰した。

この事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に、事故の前年に亡くなった親友の逸見政孝が出てきたという。たけしは「あれは、まだ俺は死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんじゃないかな」と、退院後のインタビューで答えた

この当時、本当にこの人は助かるのか
そして助かったとして、手術内容をテレビで放送されていたが
復帰か可能なのか、無理なのではとと誰もが思っていた。

こんな元気な姿を見られるとはファンは信じられないと
思っていたと思う。

その後も映画監督して世界に認めらえる存在になる。

ビートたけしはこの世にまだ必要な人間なんだと
神様が言っているんだろうと思う。

まだまだ日本ではビートたけしさんには活躍を期待している
何より、自分が一番と思わないところがたけしさんの進化と続けいている要因かもしれない。

恋愛小説を書いた

芸人で芥川賞作家の又吉直樹さんに触発されて
「純愛小説」にも書いている

何事にも挑戦する「殿」まだまだ活躍するのが楽しみだ

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